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『絵画になる日』~私がヌードモデルになるまで~
投稿日
: 2026/10/05(Mon) 18:27
投稿者
:
ベンジー
参照先
:
『絵画になる日~私がヌードモデルになるまで』
## 第1章:痕のない素肌と、アトリエの余韻
キャンバスを張った木枠の匂いと、テレピン油の少しツンとした酸っぱい香りは、松川琴葉にとって赤ん坊の頃からの揺りかごだった。
父のアトリエは、古い木造家屋の北側にあった。北側の窓から射し込む光は、一日を通して大きく変化することがない。安定した、それでいてどこか硬質な光のなかで、父はいつもキャンバスに向かっていた。
売れない画家である父親と、小さな絵画教室を経営しながら実家である老舗画商の庇護を受ける母親。恵まれた環境と、絵の具の匂いに囲まれて育った琴葉が、ごく自然に筆を握るようになったのは当然の成り行きだった。
幼い頃の琴葉の遊び場は、いつも父のアトリエだった。幼少期の彼女が幼心に強烈な美意識を植え付けられたのは、父の描く絵そのものよりもむしろ、定期的にアトリエを訪れていた一人の女性の存在だった。
彼女は、父のヌードモデルを務めていた。
「お姉ちゃん、どうしてそんなにお肌がつるつるでキレイなの?」
5歳の琴葉が、休憩中に温かい紅茶を飲むモデルの女性の膝にちょこんと腰掛け、無邪気に尋ねたときのことを、琴葉は今でも鮮明に覚えている。女性はくすっと微笑み、琴葉の幼い手をとって自分の腕に触れさせた。しっとりと吸い付くような、まるで極上の陶器のような肌だった。
「それはね、琴葉ちゃん。身体に傷や痕をつけないように、いつも気をつけているからよ」
女性は優しく琴葉に教えてくれた。
ウエストを締め付けるような固いゴムの服を着ないこと。下着の縫い目が皮膚を圧迫しないよう、シームレスなものを選ぶこと。真夏の太陽は肌の水分を奪い、滑らかなグラデーションを壊してしまうから、大きな帽子と日傘で徹底的に光を遮ること。
「絵描きさんはね、光が作った肌の微妙な影を描くの。だから、服のゴムの痕が残っていると、せっかくの綺麗な線が台無しになっちゃうのよ」
「……服の、あと」
「そう。モデルはね、キャンバスに載る前から、もう作品の一部なの」
その言葉は、幼い琴葉の胸に深く刻み込まれた。
次の日、幼稚園に通う琴葉は、お道具箱から取り出したクレヨンで自分の腕に滑らかな線を引こうとしながら、先生や園児たちの前で胸を張って宣言したのだった。
「琴葉ね、大きくなったらヌードモデルになるの」
周囲の大人は驚き、母は慌てて琴葉の口を塞いだが、琴葉自身は至って真面目だった。彼女にとって「ヌードモデル」とは、ただ服を脱ぐ仕事ではなく、父のアトリエに漂うあの神聖な空気と、究極の美を全身で体現する存在に他ならなかったからだ。
琴葉自身もまた、恵まれた容姿を持っていた。
黒髪は漆のように深く、肌は青白く透き通り、目鼻立ちがはっきりと際立った顔立ち。成長するにつれ、親戚や周囲の大人からは「まるで上質な日本人形みたいだ」と称賛された。そして容姿だけでなく、彼女には確固たる絵の才能があった。小・中学校時代に提出したポスターや風景画は、応募するコンクールというコンクールでことごとく最優秀賞をさらっていった。
だが、琴葉の日常の裏側には、常にあのモデルの女性から教わった「儀式」が息づいていた。
中学生になり、胸が膨らみ始めて周囲の女子が可愛らしいブラジャーや下着を選び始める頃になっても、琴葉が選ぶのは常に決まっていた。肌に縫い目の痕を残さないシームレスのショーツと、カップ付きのキャミソール。
夏場でも、クラスメイトが海やプールで歓声を上げる中、琴葉はツバの広い帽子を深ぶかとかぶり、長袖の薄手の上着を手放さなかった。日焼け止めを丹念に塗り込み、素肌の白さと滑らかさを完璧に保ち続けること。
それは誰に見せるためでもないはずだった。ただ、彼女の中に潜む「完璧な被写体」への無意識の献身だった。
◇
「……琴葉、ちょっといい?」
美術大学に進学して2年目の春。人体デッサンの授業の合間、アトリエの片隅で画材を整えていた琴葉に、クラスメイトの美咲が声をかけてきた。
美咲は琴葉の数少ない友人であり、サバサバとした性格の持ち主だった。
「ん? どうしたの、美咲」
「……あのさ、前からちょっと気になってたんだけど」
美咲は少し声を潜め、琴葉の肩口のあたりに視線をやった。琴葉は少し首をかしげる。
「琴葉ってさ、着替えのときに見ても、いっつもキャミソールとか、痕のつかないタイプの下着着てるよね。それに、ブラのストラップの痕とかウエストのゴムの跡とか、一切ないじゃない」
琴葉の心臓が、跳ねた。
「それ……」
「もしかしてさ」美咲はニッと悪戯っぽく笑い、琴葉の顔を覗き込んだ。「バイトしてる? ヌードモデルの」
完全に冗談めかした口調だった。だが、その言葉は琴葉の胸の最も柔らかい部分を正確に射抜いていた。
「……まさか。そんなわけないでしょう」
琴葉は努めて冷静に笑ってみせた。胸の鼓動を美咲に悟られないよう、筆を洗うバケツの水に手をつける。冷たい水が、上気しそうになった頬の熱を僅かに静めてくれた。
「だよねー! 琴葉みたいな名門の箱入り娘がそんなことするわけないか。でもさ、琴葉って本当に肌が綺麗だからさ。もしモデルやったら、男子連中どころか女子だって描くのに夢中になっちゃうよ」
美咲は「じゃ、次の授業行こ」と言って、琴葉の肩を軽たたいて去っていった。
一人残されたアトリエで、琴葉は自分の手首を見つめた。
痕のない肌。
否定はした。だが、美咲に「ヌードモデルをしているんじゃないか」と問われた瞬間、全身の血が逆流するような感覚とともに、激しい衝動が胸の奥底から込み上げていたのを、琴葉自身は隠すことができなかった。
(私……本当は……)
幼少期のアトリエの記憶、痕を残さない服を着続けてきた長い年月、そして今、美大生として「描く側」に立っている自分。
それらが一本の糸で繋がり、琴葉の心の中で「描かれる側になりたい」という熱い興味となって、静かに、しかし確実に渦巻き始めていた。
## 第2章:自室の姿見と、届かない筆
美大での講義が終わった後の夕暮れ時、実習室には絵の具と木炭の匂いが低く立ち込めていた。
琴葉がイーゼルの片付けをしていると、アトリエの重い扉が開き、一人の女性が入ってきた。卒業して数年になるという大学のOGで、現在は作家活動をしながら時折大学に顔を出しているという先輩だった。
「あ、松川さんだよね。去年の『巨匠賞』、最優秀賞おめでとう。すばらしいデッサン力だったわ」
先輩は穏やかな笑みを浮かべ、琴葉のキャンバスに目を留めた。
「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが……」
恐縮する琴葉に、先輩はアトリエの中央に置かれたポーズ台を見つめながら、懐かしむように呟いた。
「この大学も、今はモデル事務所から派遣してもらうのが当たり前になったけれど……昔は違ったのよ。私たちの少し上の代までは、授業でモデル代を節約するために、女子学生が交代でポーズ台に立っていたの」
「学生同士で……ですか?」
琴葉は手を止め、先輩の顔を見返した。胸の奥で、カチリと小さなスイッチが入る音がした。
「ええ。もちろん最初はみんな恥ずかしがるわよ。クラスメイトの視線を全身に浴びるんだもの。でもね……一度台の上に立ってみると、世界が変わるの」
先輩は静かな声で続けた。
「描く側と描かれる側は、キャンバスを挟んだ対等な表現者なのよ。視線を受けることで、自分の身体が『肉体』から『光と影を纏う立体』へと変わっていくの。私も学生時代に一度だけ交代でヌードモデルを務めたけれど……あの時の空気の冷たさと、鉛筆が紙を走る静かな音は、今でも指先に残っているわ」
――キャンバスを挟んだ、対等な表現者。
先輩の言葉は、琴葉の胸の深いところにじわじわと染み込んでいった。
◇
その夜。自室に戻った琴葉は、胸のざわめきを抑えることができずにいた。
実家から離れて暮らすマンションの自室。カーテンを隙間なく閉め切り、部屋の明かりを落としてデスクライト一つだけを点灯させた。斜め上からの強い光が、室内に劇的な陰影を生み出していく。
琴葉は服を脱いだ。
一枚、また一枚と衣類を脱ぎ捨て、最後に肌に痕を残さないキャミソールとショーツを滑り落とす。
完全に素肌となった身体で、琴葉は壁際に置かれた大きな姿見の前に立った。
鏡に映し出されたのは、光と影を浴びた一人の女性の姿だった。黒髪が白い肩に散り、胸元からウエスト、腰のくびれにかけて滑らかな曲線を描いている。
(自分で……描いてみよう)
琴葉はスケッチブックと木炭を手に取り、ポーズ台に見立てた木製の椅子の腰掛けに脚をかけた。姿見の中に映る自分を被写体とし、自画像クロッキーを始めようとしたのだ。
「……ッ」
だが、木炭を紙に走らせようとした瞬間、琴葉の指先がかすかに震えた。
最初の数分間、琴葉は「美大生としての客観的な目」を保とうと努めた。
骨格のライン、鎖骨が作る影の深さ、太ももの明暗のグラデーション。知識として頭に入っている構図と解剖学の視点で、自らの身体を冷静に捉えようとする。
しかし、鏡の中の自分の「目」と、現実の自分の「目」が正面から交わった瞬間――意識の相違が一気に崩れ去った。
「っ……ふぅ……」
鏡の中の瞳が、自分を見つめ返している。
『見られている』という強烈な感覚が、全身の皮膚から脳へと駆け抜けた。
自室のひんやりとした空気、素肌をかすめる微風、そして跳ね上がる自分の心臓の音。自分の視線であるはずなのに、まるで他人の視線に全身を晒されているかのような錯覚に襲われる。頬が火照り、指先からすうっと温度が引いていく。
(恥ずかしい……こんなの……っ)
女性としての激しい羞恥心が胸を突き上げた。誰に見せるわけでもない、自分一人だけの空間であるはずなのに、裸体であるという事実そのものが、生身の自分を急激に突きつけてくる。
琴葉は固まったまま、じっと木炭を握りしめていた。
(でも……どうしてこんなに美しいんだろう)
恥じらいの波のすぐ後ろから、純粋な芸術的衝動が押し寄せてくる。
斜めからの光を受けて浮かび上がる肩の稜線。息を吸うたびに微妙に上下する胸の起伏。そこには、肉体を超えた「ひとつの完成された美」が存在していた。
琴葉は必死に木炭を走らせようとした。だが、どうしても線が描けない。
自分で自分を描くことの、決定的な限界に気づいてしまったからだ。
どれほど巧みに描こうとも、自分が描く限り、そこには「自分が意図した自分」しか存在しない。自分自身の視線には、未知の発見も、キャンバスを挟んだ緊張感も生じることはないのだ。
(誰かに……描いてほしい)
頭の中に、ふとそんな思いが浮かび上がり、琴葉は息を呑んだ。
自分以外の他者の視線。鋭く自分を観察し、光と影として紙の上に解体し、再構築してくれる絵描きの存在。
その視線を全身に浴びてみたい。自分の身体が、誰かのキャンバスの上で一つの作品として昇華される瞬間を体験したい。
「……駄目、そんなの……っ」
すぐに首を振った。
他者にこの姿を見せる。クラスメイトや、男子学生たちの前に服を脱いで立つ。
その光景を想像しただけで、足の先から全身がすくむような恥じらいが襲ってくる。芸術だと割り切ろうとすればするほど、「見られる女性としての自分」が激しく抵抗するのだ。
好奇心と羞恥心。
表現者としての渇望と、一人の女性としての尊厳。
二つの感情が胸の中で激しく衝突し合い、琴葉はそれ以上、木炭を動かすことができなくなった。
カサリ、と音を立ててスケッチブックが床に落ちる。
琴葉は胸を抱きしめるようにしてその場にしゃがみ込み、鏡の中の自分から逃げるように目を背けた。
## 第3章:過熱する教室と、決意の言葉
2年生に進級してしばらく経った頃、美大の学内はにわかに活気を帯び始めていた。
この大学の名物でもある学内コンクール――卒業生である裸婦画の巨匠の名を冠した大賞の募集要項が発表されたからだ。最優秀賞の栄誉に輝けば、在校生であっても画廊や美術関係者の目に止まり、画家としての道が一気に開ける。
ただし、この最優秀賞を受賞できるのは「在校中に一度のみ」という厳格な規約があった。
すでに1年生の時に最優秀賞を手にした琴葉は、今回のコンクールに描き手として参加することはできない。熱気に包まれるアトリエで、どこか蚊帳の外にいるような一抹の寂しさを感じながら、琴葉は周囲の様子を観察していた。
「ねえ、例のアレ……今年本当にやるのかな?」
アトリエの隅で、数人の女子学生が小声で話し合っていた。OG先輩が口にしていた「学生同士による交代モデル」の噂が、いつの間にか学生たちの間で現実味を帯びて囁かれ始めていたのだ。
今回のコンクール課題は「人体解剖学に基づく究極の裸婦デッサン」。
プロのモデルを毎日雇う資金がない各教室では、本気で上位を狙う学生たちが「自分たちで交代でモデルを務めれば、より多様で密度の高いポーズが描けるのではないか」と議論を深めていた。
「表現のためなら、私は全然脱いでもいいと思う。お互い美大生なんだし、キャンバスに向かえば性別なんて関係ないでしょ」
サバサバとした調子で語る女子学生もいれば、引きつった笑みを浮かべて言葉を濁す者もいる。
しかし、琴葉が気になったのは男子学生たちの反応だった。
「本当に交代で脱ぐのかな」
「まさか、あいつが台に立つわけ?」
キャンバスの陰で交わされる男子学生たちのヒソヒソ話。彼らは芸術家としての真摯な表情を取り繕いながらも、その瞳の奥には隠しきれない好奇心や、どこか生々しい視線を覗かせていた。
――「純粋な芸術的視線」と「生身の女性に向ける邪な視線」。
アトリエに満ちるその密やかな熱気を感じ取るたび、琴葉の背筋には冷たい肌擦れのような戦慄が走った。自室で抱いた「作品として描かれたいという渇望」と、「すべてを見られることの恐怖と羞恥」が再び胸の中で激しくせめぎ合う。
◇
週末、琴葉は気分転換を兼ねて、中学生の頃から通い詰めている決まった下着店を訪れていた。
街の静かな路地裏にあるその店は、縫い目のない高品質なインナーや、肌に負担をかけないシルク製品を専門に扱っている。
「いらっしゃいませ。松川様、いつもありがとうございます」
いつもの年配の女性店員が、温かい笑みで琴葉を迎えてくれた。琴葉はいつものように、肌に痕を残さないシームレスのショーツと、締め付けのないキャミソールを手に取り、レジへと運んだ。
店員は商品を丁寧に紙袋へ納めながら、ふと感心したように琴葉の顔を見つめた。
「それにしても……松川様は本当に昔から、お肌に痕のつかないお召し物ばかりを徹底して選ばれますわね。お首筋も、手首も、本当にうっとりするほど滑らかで……」
「……あ、はい。昔からの習慣で」
琴葉が照れくさそうに微笑むと、店員はふと思い当たったような顔をして、声を潜めて尋ねてきた。
「もしかして……お客様、ヌードモデルをされていらっしゃるのですか? プロのモデルさんでも、ここまで徹底されている方は珍しいと思いまして」
琴葉の息が、ピタリと止まった。
店員の瞳には、不躾な好奇心など微塵もなかった。ただ、琴葉の長年の徹底した「肌へのこだわり」に対する純粋な納得と敬意だけが含まれていた。
「……」
頭の中で、幼い頃のアトリエの匂いが弾けた。
お姉ちゃんの膝の温もり。
痕のない素肌。
自室の鏡の前で抱いた、言葉にならない渇望。
否定することは簡単だった。「違います、ただの美大生です」と笑い飛ばせば済む話だった。
だが、琴葉の唇は、彼女自身の意図を超えて滑らかに動いた。
「……はい」
澄んだ、はっきりとした声だった。
「はい、ヌードモデルを……しています」
口に出した瞬間、全身の血が指先まで一気に巡るのを感じた。
嘘だったはずの言葉が、自分の中で決定的な「事実」へと裏返った瞬間だった。店を出た後も、琴葉の心臓は早鐘のように鳴り響いていた。自分はついに、一線を越えて言葉にしてしまったのだと。
◇
その日の夜、琴葉は実家へと向かった。
父のアトリエには、相変わらず油絵具とテレピン油の匂いが充満していた。古びたパイプ椅子に腰掛け、キャンバスに向かう父の後ろ姿を見つめながら、琴葉は静かに問いかけた。
「お父さん。……絵を描く人にとって、『描かれる側』ってどういう存在なの?」
父は筆を止め、ゆっくりと振り向いた。深く刻まれた目尻のシワの奥で、静かな瞳が琴葉を見つめる。
「急にどうした、琴葉」
「……ただ、知りたくなったの。描く側の視線と、描かれる側の気持ちについて」
父はしばらく沈黙し、アトリエの壁に掛けられた古びた額縁に視線をやった。そこには、今回の学内コンクールのモチーフにもなっている、あの巨匠のデッサン画が飾られていた。
「琴葉。お前も知っているだろう。今年のコンクールの栞の最初の一頁に、あの巨匠が残した言葉が書いてある」
父は静かな、しかし重みのある声で言った。
『絵を描く者は、一度は描かれる側の気持ちを知れ』
琴葉は息を呑んだ。
「モデルはな、単なる静物(モチーフ)じゃない。台の上に立つ人間が、どれほどの緊張と、恥じらいと、そして誇りを持って素肌を晒しているか。それを肌で知らぬ者に、人の生の美しさなど描けるはずがない……巨匠はそう言いたかったんだ」
父は琴葉の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
「琴葉がお人形さんのようだと持て囃されていた頃から、お前が誰よりも真摯に絵と向き合ってきたのを私は知っている。……もしお前が何か迷っているなら、自分の『美意識』を信じなさい。表現者として立ちたい場所があるなら、恐れることはない」
父の言葉が、琴葉の胸の最も深い場所に残っていた迷いを、静かに押し流していった。
逃げるための恥じらいではない。
自分は、ただ見られたいのではない。表現者として、ひとつの究極の作品になるために台に立つのだ。
琴葉はゆっくりと立ち上がり、父に向かって静かに深く、深く頷いた。
## 第4章:絵画になる日
2年生の5月。新緑の光がアトリエの北窓を鮮やかに彩る季節、美大は12月末の締め切りに向けた「学内コンクール制作期間」の初日を迎えていた。
アトリエには学生たちが一堂に会し、イーゼルを並べてモデルの到着を静かに待っていた。ところが、重いドアを開けて入ってきた担当講師の顔色は厳しかった。
「連絡が入った。今日依頼していたモデル事務所のモデルが、途中で交通事故に遭ったらしい。怪我は命に別条ないそうだが、今日の派遣は不可能だ。……君たちは少し待機していなさい」
講師が指示と調整のためにアトリエを出て行くと、室内には一気に失望と動揺が広がった。制作初日にポーズが決まらなければ、キャンバスのサイズ選びも下地作りも完全にストップしてしまう。
その時、琴葉の腕が急に引っ張られた。
「琴葉、ちょっと来て」
クラスメイトの美咲だった。琴葉は訳も分からぬまま、美咲と他二人の女子学生に連れられ、アトリエの隅にある準備室の影へと追いやられた。
「ねえ、琴葉。どうする?」
美咲が声をひそめて切り出してきた。
「どうするって……」
「このままモデルが来なくて初日がつぶれるなんて嫌でしょ。だからさ……自分たちで交代でモデルをやらない?」
「交代で……?」琴葉は目を丸くした。
「そうだよ。文字通り一肌脱ごうってわけ。ね、みんなも賛成でしょ?」
美咲の後ろで、二人の女子学生も力強く深く頷いている。
さらに美咲は、琴葉の肩をポンと叩き、悪戯っぽい笑みを深めた。
「でね、琴葉。記念すべき初日のモデルは、琴葉にお願いしたいの」
「えっ、私!?」
「だって琴葉、いっつも肌に痕の残らない下着着てるじゃない。今すぐ脱いでもゴムの痕ひとつついてないでしょ? 完璧なのよ」
「それは……そうだけど……」
琴葉の胸が激しく跳ねた。
自室の姿見の前で抱いた激しい葛藤。下着店で思わず「はい」と答えてしまったあの日。それらが頭の中を駆け巡る。
(みんなで交代でやるのなら……)
「自分ひとりだけ」ではないという安心感と、ずっと胸の奥に燻っていた「描かれたい」という芸術的衝動が、琴葉の背中を押した。
「……分かったわ」
意を決してアトリエに戻ると、ちょうど苦い顔で戻ってきた担当講師に向かって、琴葉はすっと手を挙げた。
「……先生、私がやります」
講師は目を見張り、「本当か……? 助かる!」と安堵の息を漏らした。
琴葉はアトリエの隅に立てられた衝立の陰に入り、服を脱いだ。準備されたガウンを羽織り、素肌に触れる生地の冷たさに息を呑む。
アトリエの中央、一段高くなったポーズ台に立つ。
三十組以上の視線が集中する中、琴葉は肩の紐を解いた。
すらり、と音を立ててガウンが足元へ落ちる。
北窓からの光を浴びた琴葉の素肌は、一切の傷も痕もない、白磁のような美しさを放っていた。一瞬の激しい恥じらいを抑え込み、背筋を伸ばして両腕をポーズ台の縁へと添える。
「……よし、描き始めてくれ!」
講師の声とともに、木炭が紙を擦る音だけがアトリエに響き始めた。
◇
初日の予定時間を無事に終え、ポーズ台の上でガウンを再び纏った琴葉に、担当講師がしみじみとした顔で近づいてきた。
「松川、本当に助かったよ。完璧なポーズだった。……12月までの長丁場だが、体調に気をつけて頑張ってくれ」
「……え?」
琴葉は固まった。
「あの……先生? 12月まで、とおっしゃいましたか?」
「ん? ああ、そうか。人体デッサンの基礎授業なら毎回モデルを交代してもいいが、コンクール応募作となるとそうはいかないだろう。同じ骨格、同じ肌のトーン、同じポーズでなければ、油絵の着彩まで描き込めないからな。完成まで一人のモデルが務めるのが鉄則だ」
講師が満足そうに去っていった後、琴葉は呆然と立ち尽くした。
ふと振り返ると、後ろで美咲たち三人組が、両手を合わせて「ゴメン!」という顔をしていた。
「……ハメたわね」
琴葉が低い声で呟くと、美咲はペロッと舌を出した。
最初から交代でやる気などなかったのだ。琴葉の徹底した肌のお手入れと、どこかモデルに興味を示していた雰囲気を察して、確信犯で琴葉をポーズ台に押し上げたのだと悟った。
だが――不思議と、嫌な気持ちは一切湧いてこなかった。
ガウンの下の素肌はまだポッポと熱く、自分以外の全員の視線を一身に浴びてキャンバスに刻まれたという強烈な全能感が、全身を満たしていたからだ。
美咲がニヤリと笑い、琴葉に目配せをした。
「それにしても、松川琴葉がヌードモデルになったって聞いたら、明日から他のクラスの先生方からも協力を頼まれるかもね~」
「その前に、噂を聞きつけた他学科の男子学生がアトリエを覗きにくるんじゃない?」
「見学希望者で、明日からこのアトリエがいっぱいになっちゃうかもね!」
美咲たちの楽しそうな話し声を聞きながら、琴葉はそっと自分の胸元を押さえた。
モデルになる覚悟は決めたはずだった。
しかし、明日から待ち受けているであろう怒涛の日常と視線の嵐を思い、琴葉は前途多難な未来に思いを馳せずにはいられなかった。
(了)
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## 第1章:痕のない素肌と、アトリエの余韻
キャンバスを張った木枠の匂いと、テレピン油の少しツンとした酸っぱい香りは、松川琴葉にとって赤ん坊の頃からの揺りかごだった。
父のアトリエは、古い木造家屋の北側にあった。北側の窓から射し込む光は、一日を通して大きく変化することがない。安定した、それでいてどこか硬質な光のなかで、父はいつもキャンバスに向かっていた。
売れない画家である父親と、小さな絵画教室を経営しながら実家である老舗画商の庇護を受ける母親。恵まれた環境と、絵の具の匂いに囲まれて育った琴葉が、ごく自然に筆を握るようになったのは当然の成り行きだった。
幼い頃の琴葉の遊び場は、いつも父のアトリエだった。幼少期の彼女が幼心に強烈な美意識を植え付けられたのは、父の描く絵そのものよりもむしろ、定期的にアトリエを訪れていた一人の女性の存在だった。
彼女は、父のヌードモデルを務めていた。
「お姉ちゃん、どうしてそんなにお肌がつるつるでキレイなの?」
5歳の琴葉が、休憩中に温かい紅茶を飲むモデルの女性の膝にちょこんと腰掛け、無邪気に尋ねたときのことを、琴葉は今でも鮮明に覚えている。女性はくすっと微笑み、琴葉の幼い手をとって自分の腕に触れさせた。しっとりと吸い付くような、まるで極上の陶器のような肌だった。
「それはね、琴葉ちゃん。身体に傷や痕をつけないように、いつも気をつけているからよ」
女性は優しく琴葉に教えてくれた。
ウエストを締め付けるような固いゴムの服を着ないこと。下着の縫い目が皮膚を圧迫しないよう、シームレスなものを選ぶこと。真夏の太陽は肌の水分を奪い、滑らかなグラデーションを壊してしまうから、大きな帽子と日傘で徹底的に光を遮ること。
「絵描きさんはね、光が作った肌の微妙な影を描くの。だから、服のゴムの痕が残っていると、せっかくの綺麗な線が台無しになっちゃうのよ」
「……服の、あと」
「そう。モデルはね、キャンバスに載る前から、もう作品の一部なの」
その言葉は、幼い琴葉の胸に深く刻み込まれた。
次の日、幼稚園に通う琴葉は、お道具箱から取り出したクレヨンで自分の腕に滑らかな線を引こうとしながら、先生や園児たちの前で胸を張って宣言したのだった。
「琴葉ね、大きくなったらヌードモデルになるの」
周囲の大人は驚き、母は慌てて琴葉の口を塞いだが、琴葉自身は至って真面目だった。彼女にとって「ヌードモデル」とは、ただ服を脱ぐ仕事ではなく、父のアトリエに漂うあの神聖な空気と、究極の美を全身で体現する存在に他ならなかったからだ。
琴葉自身もまた、恵まれた容姿を持っていた。
黒髪は漆のように深く、肌は青白く透き通り、目鼻立ちがはっきりと際立った顔立ち。成長するにつれ、親戚や周囲の大人からは「まるで上質な日本人形みたいだ」と称賛された。そして容姿だけでなく、彼女には確固たる絵の才能があった。小・中学校時代に提出したポスターや風景画は、応募するコンクールというコンクールでことごとく最優秀賞をさらっていった。
だが、琴葉の日常の裏側には、常にあのモデルの女性から教わった「儀式」が息づいていた。
中学生になり、胸が膨らみ始めて周囲の女子が可愛らしいブラジャーや下着を選び始める頃になっても、琴葉が選ぶのは常に決まっていた。肌に縫い目の痕を残さないシームレスのショーツと、カップ付きのキャミソール。
夏場でも、クラスメイトが海やプールで歓声を上げる中、琴葉はツバの広い帽子を深ぶかとかぶり、長袖の薄手の上着を手放さなかった。日焼け止めを丹念に塗り込み、素肌の白さと滑らかさを完璧に保ち続けること。
それは誰に見せるためでもないはずだった。ただ、彼女の中に潜む「完璧な被写体」への無意識の献身だった。
◇
「……琴葉、ちょっといい?」
美術大学に進学して2年目の春。人体デッサンの授業の合間、アトリエの片隅で画材を整えていた琴葉に、クラスメイトの美咲が声をかけてきた。
美咲は琴葉の数少ない友人であり、サバサバとした性格の持ち主だった。
「ん? どうしたの、美咲」
「……あのさ、前からちょっと気になってたんだけど」
美咲は少し声を潜め、琴葉の肩口のあたりに視線をやった。琴葉は少し首をかしげる。
「琴葉ってさ、着替えのときに見ても、いっつもキャミソールとか、痕のつかないタイプの下着着てるよね。それに、ブラのストラップの痕とかウエストのゴムの跡とか、一切ないじゃない」
琴葉の心臓が、跳ねた。
「それ……」
「もしかしてさ」美咲はニッと悪戯っぽく笑い、琴葉の顔を覗き込んだ。「バイトしてる? ヌードモデルの」
完全に冗談めかした口調だった。だが、その言葉は琴葉の胸の最も柔らかい部分を正確に射抜いていた。
「……まさか。そんなわけないでしょう」
琴葉は努めて冷静に笑ってみせた。胸の鼓動を美咲に悟られないよう、筆を洗うバケツの水に手をつける。冷たい水が、上気しそうになった頬の熱を僅かに静めてくれた。
「だよねー! 琴葉みたいな名門の箱入り娘がそんなことするわけないか。でもさ、琴葉って本当に肌が綺麗だからさ。もしモデルやったら、男子連中どころか女子だって描くのに夢中になっちゃうよ」
美咲は「じゃ、次の授業行こ」と言って、琴葉の肩を軽たたいて去っていった。
一人残されたアトリエで、琴葉は自分の手首を見つめた。
痕のない肌。
否定はした。だが、美咲に「ヌードモデルをしているんじゃないか」と問われた瞬間、全身の血が逆流するような感覚とともに、激しい衝動が胸の奥底から込み上げていたのを、琴葉自身は隠すことができなかった。
(私……本当は……)
幼少期のアトリエの記憶、痕を残さない服を着続けてきた長い年月、そして今、美大生として「描く側」に立っている自分。
それらが一本の糸で繋がり、琴葉の心の中で「描かれる側になりたい」という熱い興味となって、静かに、しかし確実に渦巻き始めていた。
## 第2章:自室の姿見と、届かない筆
美大での講義が終わった後の夕暮れ時、実習室には絵の具と木炭の匂いが低く立ち込めていた。
琴葉がイーゼルの片付けをしていると、アトリエの重い扉が開き、一人の女性が入ってきた。卒業して数年になるという大学のOGで、現在は作家活動をしながら時折大学に顔を出しているという先輩だった。
「あ、松川さんだよね。去年の『巨匠賞』、最優秀賞おめでとう。すばらしいデッサン力だったわ」
先輩は穏やかな笑みを浮かべ、琴葉のキャンバスに目を留めた。
「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが……」
恐縮する琴葉に、先輩はアトリエの中央に置かれたポーズ台を見つめながら、懐かしむように呟いた。
「この大学も、今はモデル事務所から派遣してもらうのが当たり前になったけれど……昔は違ったのよ。私たちの少し上の代までは、授業でモデル代を節約するために、女子学生が交代でポーズ台に立っていたの」
「学生同士で……ですか?」
琴葉は手を止め、先輩の顔を見返した。胸の奥で、カチリと小さなスイッチが入る音がした。
「ええ。もちろん最初はみんな恥ずかしがるわよ。クラスメイトの視線を全身に浴びるんだもの。でもね……一度台の上に立ってみると、世界が変わるの」
先輩は静かな声で続けた。
「描く側と描かれる側は、キャンバスを挟んだ対等な表現者なのよ。視線を受けることで、自分の身体が『肉体』から『光と影を纏う立体』へと変わっていくの。私も学生時代に一度だけ交代でヌードモデルを務めたけれど……あの時の空気の冷たさと、鉛筆が紙を走る静かな音は、今でも指先に残っているわ」
――キャンバスを挟んだ、対等な表現者。
先輩の言葉は、琴葉の胸の深いところにじわじわと染み込んでいった。
◇
その夜。自室に戻った琴葉は、胸のざわめきを抑えることができずにいた。
実家から離れて暮らすマンションの自室。カーテンを隙間なく閉め切り、部屋の明かりを落としてデスクライト一つだけを点灯させた。斜め上からの強い光が、室内に劇的な陰影を生み出していく。
琴葉は服を脱いだ。
一枚、また一枚と衣類を脱ぎ捨て、最後に肌に痕を残さないキャミソールとショーツを滑り落とす。
完全に素肌となった身体で、琴葉は壁際に置かれた大きな姿見の前に立った。
鏡に映し出されたのは、光と影を浴びた一人の女性の姿だった。黒髪が白い肩に散り、胸元からウエスト、腰のくびれにかけて滑らかな曲線を描いている。
(自分で……描いてみよう)
琴葉はスケッチブックと木炭を手に取り、ポーズ台に見立てた木製の椅子の腰掛けに脚をかけた。姿見の中に映る自分を被写体とし、自画像クロッキーを始めようとしたのだ。
「……ッ」
だが、木炭を紙に走らせようとした瞬間、琴葉の指先がかすかに震えた。
最初の数分間、琴葉は「美大生としての客観的な目」を保とうと努めた。
骨格のライン、鎖骨が作る影の深さ、太ももの明暗のグラデーション。知識として頭に入っている構図と解剖学の視点で、自らの身体を冷静に捉えようとする。
しかし、鏡の中の自分の「目」と、現実の自分の「目」が正面から交わった瞬間――意識の相違が一気に崩れ去った。
「っ……ふぅ……」
鏡の中の瞳が、自分を見つめ返している。
『見られている』という強烈な感覚が、全身の皮膚から脳へと駆け抜けた。
自室のひんやりとした空気、素肌をかすめる微風、そして跳ね上がる自分の心臓の音。自分の視線であるはずなのに、まるで他人の視線に全身を晒されているかのような錯覚に襲われる。頬が火照り、指先からすうっと温度が引いていく。
(恥ずかしい……こんなの……っ)
女性としての激しい羞恥心が胸を突き上げた。誰に見せるわけでもない、自分一人だけの空間であるはずなのに、裸体であるという事実そのものが、生身の自分を急激に突きつけてくる。
琴葉は固まったまま、じっと木炭を握りしめていた。
(でも……どうしてこんなに美しいんだろう)
恥じらいの波のすぐ後ろから、純粋な芸術的衝動が押し寄せてくる。
斜めからの光を受けて浮かび上がる肩の稜線。息を吸うたびに微妙に上下する胸の起伏。そこには、肉体を超えた「ひとつの完成された美」が存在していた。
琴葉は必死に木炭を走らせようとした。だが、どうしても線が描けない。
自分で自分を描くことの、決定的な限界に気づいてしまったからだ。
どれほど巧みに描こうとも、自分が描く限り、そこには「自分が意図した自分」しか存在しない。自分自身の視線には、未知の発見も、キャンバスを挟んだ緊張感も生じることはないのだ。
(誰かに……描いてほしい)
頭の中に、ふとそんな思いが浮かび上がり、琴葉は息を呑んだ。
自分以外の他者の視線。鋭く自分を観察し、光と影として紙の上に解体し、再構築してくれる絵描きの存在。
その視線を全身に浴びてみたい。自分の身体が、誰かのキャンバスの上で一つの作品として昇華される瞬間を体験したい。
「……駄目、そんなの……っ」
すぐに首を振った。
他者にこの姿を見せる。クラスメイトや、男子学生たちの前に服を脱いで立つ。
その光景を想像しただけで、足の先から全身がすくむような恥じらいが襲ってくる。芸術だと割り切ろうとすればするほど、「見られる女性としての自分」が激しく抵抗するのだ。
好奇心と羞恥心。
表現者としての渇望と、一人の女性としての尊厳。
二つの感情が胸の中で激しく衝突し合い、琴葉はそれ以上、木炭を動かすことができなくなった。
カサリ、と音を立ててスケッチブックが床に落ちる。
琴葉は胸を抱きしめるようにしてその場にしゃがみ込み、鏡の中の自分から逃げるように目を背けた。
## 第3章:過熱する教室と、決意の言葉
2年生に進級してしばらく経った頃、美大の学内はにわかに活気を帯び始めていた。
この大学の名物でもある学内コンクール――卒業生である裸婦画の巨匠の名を冠した大賞の募集要項が発表されたからだ。最優秀賞の栄誉に輝けば、在校生であっても画廊や美術関係者の目に止まり、画家としての道が一気に開ける。
ただし、この最優秀賞を受賞できるのは「在校中に一度のみ」という厳格な規約があった。
すでに1年生の時に最優秀賞を手にした琴葉は、今回のコンクールに描き手として参加することはできない。熱気に包まれるアトリエで、どこか蚊帳の外にいるような一抹の寂しさを感じながら、琴葉は周囲の様子を観察していた。
「ねえ、例のアレ……今年本当にやるのかな?」
アトリエの隅で、数人の女子学生が小声で話し合っていた。OG先輩が口にしていた「学生同士による交代モデル」の噂が、いつの間にか学生たちの間で現実味を帯びて囁かれ始めていたのだ。
今回のコンクール課題は「人体解剖学に基づく究極の裸婦デッサン」。
プロのモデルを毎日雇う資金がない各教室では、本気で上位を狙う学生たちが「自分たちで交代でモデルを務めれば、より多様で密度の高いポーズが描けるのではないか」と議論を深めていた。
「表現のためなら、私は全然脱いでもいいと思う。お互い美大生なんだし、キャンバスに向かえば性別なんて関係ないでしょ」
サバサバとした調子で語る女子学生もいれば、引きつった笑みを浮かべて言葉を濁す者もいる。
しかし、琴葉が気になったのは男子学生たちの反応だった。
「本当に交代で脱ぐのかな」
「まさか、あいつが台に立つわけ?」
キャンバスの陰で交わされる男子学生たちのヒソヒソ話。彼らは芸術家としての真摯な表情を取り繕いながらも、その瞳の奥には隠しきれない好奇心や、どこか生々しい視線を覗かせていた。
――「純粋な芸術的視線」と「生身の女性に向ける邪な視線」。
アトリエに満ちるその密やかな熱気を感じ取るたび、琴葉の背筋には冷たい肌擦れのような戦慄が走った。自室で抱いた「作品として描かれたいという渇望」と、「すべてを見られることの恐怖と羞恥」が再び胸の中で激しくせめぎ合う。
◇
週末、琴葉は気分転換を兼ねて、中学生の頃から通い詰めている決まった下着店を訪れていた。
街の静かな路地裏にあるその店は、縫い目のない高品質なインナーや、肌に負担をかけないシルク製品を専門に扱っている。
「いらっしゃいませ。松川様、いつもありがとうございます」
いつもの年配の女性店員が、温かい笑みで琴葉を迎えてくれた。琴葉はいつものように、肌に痕を残さないシームレスのショーツと、締め付けのないキャミソールを手に取り、レジへと運んだ。
店員は商品を丁寧に紙袋へ納めながら、ふと感心したように琴葉の顔を見つめた。
「それにしても……松川様は本当に昔から、お肌に痕のつかないお召し物ばかりを徹底して選ばれますわね。お首筋も、手首も、本当にうっとりするほど滑らかで……」
「……あ、はい。昔からの習慣で」
琴葉が照れくさそうに微笑むと、店員はふと思い当たったような顔をして、声を潜めて尋ねてきた。
「もしかして……お客様、ヌードモデルをされていらっしゃるのですか? プロのモデルさんでも、ここまで徹底されている方は珍しいと思いまして」
琴葉の息が、ピタリと止まった。
店員の瞳には、不躾な好奇心など微塵もなかった。ただ、琴葉の長年の徹底した「肌へのこだわり」に対する純粋な納得と敬意だけが含まれていた。
「……」
頭の中で、幼い頃のアトリエの匂いが弾けた。
お姉ちゃんの膝の温もり。
痕のない素肌。
自室の鏡の前で抱いた、言葉にならない渇望。
否定することは簡単だった。「違います、ただの美大生です」と笑い飛ばせば済む話だった。
だが、琴葉の唇は、彼女自身の意図を超えて滑らかに動いた。
「……はい」
澄んだ、はっきりとした声だった。
「はい、ヌードモデルを……しています」
口に出した瞬間、全身の血が指先まで一気に巡るのを感じた。
嘘だったはずの言葉が、自分の中で決定的な「事実」へと裏返った瞬間だった。店を出た後も、琴葉の心臓は早鐘のように鳴り響いていた。自分はついに、一線を越えて言葉にしてしまったのだと。
◇
その日の夜、琴葉は実家へと向かった。
父のアトリエには、相変わらず油絵具とテレピン油の匂いが充満していた。古びたパイプ椅子に腰掛け、キャンバスに向かう父の後ろ姿を見つめながら、琴葉は静かに問いかけた。
「お父さん。……絵を描く人にとって、『描かれる側』ってどういう存在なの?」
父は筆を止め、ゆっくりと振り向いた。深く刻まれた目尻のシワの奥で、静かな瞳が琴葉を見つめる。
「急にどうした、琴葉」
「……ただ、知りたくなったの。描く側の視線と、描かれる側の気持ちについて」
父はしばらく沈黙し、アトリエの壁に掛けられた古びた額縁に視線をやった。そこには、今回の学内コンクールのモチーフにもなっている、あの巨匠のデッサン画が飾られていた。
「琴葉。お前も知っているだろう。今年のコンクールの栞の最初の一頁に、あの巨匠が残した言葉が書いてある」
父は静かな、しかし重みのある声で言った。
『絵を描く者は、一度は描かれる側の気持ちを知れ』
琴葉は息を呑んだ。
「モデルはな、単なる静物(モチーフ)じゃない。台の上に立つ人間が、どれほどの緊張と、恥じらいと、そして誇りを持って素肌を晒しているか。それを肌で知らぬ者に、人の生の美しさなど描けるはずがない……巨匠はそう言いたかったんだ」
父は琴葉の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
「琴葉がお人形さんのようだと持て囃されていた頃から、お前が誰よりも真摯に絵と向き合ってきたのを私は知っている。……もしお前が何か迷っているなら、自分の『美意識』を信じなさい。表現者として立ちたい場所があるなら、恐れることはない」
父の言葉が、琴葉の胸の最も深い場所に残っていた迷いを、静かに押し流していった。
逃げるための恥じらいではない。
自分は、ただ見られたいのではない。表現者として、ひとつの究極の作品になるために台に立つのだ。
琴葉はゆっくりと立ち上がり、父に向かって静かに深く、深く頷いた。
## 第4章:絵画になる日
2年生の5月。新緑の光がアトリエの北窓を鮮やかに彩る季節、美大は12月末の締め切りに向けた「学内コンクール制作期間」の初日を迎えていた。
アトリエには学生たちが一堂に会し、イーゼルを並べてモデルの到着を静かに待っていた。ところが、重いドアを開けて入ってきた担当講師の顔色は厳しかった。
「連絡が入った。今日依頼していたモデル事務所のモデルが、途中で交通事故に遭ったらしい。怪我は命に別条ないそうだが、今日の派遣は不可能だ。……君たちは少し待機していなさい」
講師が指示と調整のためにアトリエを出て行くと、室内には一気に失望と動揺が広がった。制作初日にポーズが決まらなければ、キャンバスのサイズ選びも下地作りも完全にストップしてしまう。
その時、琴葉の腕が急に引っ張られた。
「琴葉、ちょっと来て」
クラスメイトの美咲だった。琴葉は訳も分からぬまま、美咲と他二人の女子学生に連れられ、アトリエの隅にある準備室の影へと追いやられた。
「ねえ、琴葉。どうする?」
美咲が声をひそめて切り出してきた。
「どうするって……」
「このままモデルが来なくて初日がつぶれるなんて嫌でしょ。だからさ……自分たちで交代でモデルをやらない?」
「交代で……?」琴葉は目を丸くした。
「そうだよ。文字通り一肌脱ごうってわけ。ね、みんなも賛成でしょ?」
美咲の後ろで、二人の女子学生も力強く深く頷いている。
さらに美咲は、琴葉の肩をポンと叩き、悪戯っぽい笑みを深めた。
「でね、琴葉。記念すべき初日のモデルは、琴葉にお願いしたいの」
「えっ、私!?」
「だって琴葉、いっつも肌に痕の残らない下着着てるじゃない。今すぐ脱いでもゴムの痕ひとつついてないでしょ? 完璧なのよ」
「それは……そうだけど……」
琴葉の胸が激しく跳ねた。
自室の姿見の前で抱いた激しい葛藤。下着店で思わず「はい」と答えてしまったあの日。それらが頭の中を駆け巡る。
(みんなで交代でやるのなら……)
「自分ひとりだけ」ではないという安心感と、ずっと胸の奥に燻っていた「描かれたい」という芸術的衝動が、琴葉の背中を押した。
「……分かったわ」
意を決してアトリエに戻ると、ちょうど苦い顔で戻ってきた担当講師に向かって、琴葉はすっと手を挙げた。
「……先生、私がやります」
講師は目を見張り、「本当か……? 助かる!」と安堵の息を漏らした。
琴葉はアトリエの隅に立てられた衝立の陰に入り、服を脱いだ。準備されたガウンを羽織り、素肌に触れる生地の冷たさに息を呑む。
アトリエの中央、一段高くなったポーズ台に立つ。
三十組以上の視線が集中する中、琴葉は肩の紐を解いた。
すらり、と音を立ててガウンが足元へ落ちる。
北窓からの光を浴びた琴葉の素肌は、一切の傷も痕もない、白磁のような美しさを放っていた。一瞬の激しい恥じらいを抑え込み、背筋を伸ばして両腕をポーズ台の縁へと添える。
「……よし、描き始めてくれ!」
講師の声とともに、木炭が紙を擦る音だけがアトリエに響き始めた。
◇
初日の予定時間を無事に終え、ポーズ台の上でガウンを再び纏った琴葉に、担当講師がしみじみとした顔で近づいてきた。
「松川、本当に助かったよ。完璧なポーズだった。……12月までの長丁場だが、体調に気をつけて頑張ってくれ」
「……え?」
琴葉は固まった。
「あの……先生? 12月まで、とおっしゃいましたか?」
「ん? ああ、そうか。人体デッサンの基礎授業なら毎回モデルを交代してもいいが、コンクール応募作となるとそうはいかないだろう。同じ骨格、同じ肌のトーン、同じポーズでなければ、油絵の着彩まで描き込めないからな。完成まで一人のモデルが務めるのが鉄則だ」
講師が満足そうに去っていった後、琴葉は呆然と立ち尽くした。
ふと振り返ると、後ろで美咲たち三人組が、両手を合わせて「ゴメン!」という顔をしていた。
「……ハメたわね」
琴葉が低い声で呟くと、美咲はペロッと舌を出した。
最初から交代でやる気などなかったのだ。琴葉の徹底した肌のお手入れと、どこかモデルに興味を示していた雰囲気を察して、確信犯で琴葉をポーズ台に押し上げたのだと悟った。
だが――不思議と、嫌な気持ちは一切湧いてこなかった。
ガウンの下の素肌はまだポッポと熱く、自分以外の全員の視線を一身に浴びてキャンバスに刻まれたという強烈な全能感が、全身を満たしていたからだ。
美咲がニヤリと笑い、琴葉に目配せをした。
「それにしても、松川琴葉がヌードモデルになったって聞いたら、明日から他のクラスの先生方からも協力を頼まれるかもね~」
「その前に、噂を聞きつけた他学科の男子学生がアトリエを覗きにくるんじゃない?」
「見学希望者で、明日からこのアトリエがいっぱいになっちゃうかもね!」
美咲たちの楽しそうな話し声を聞きながら、琴葉はそっと自分の胸元を押さえた。
モデルになる覚悟は決めたはずだった。
しかし、明日から待ち受けているであろう怒涛の日常と視線の嵐を思い、琴葉は前途多難な未来に思いを馳せずにはいられなかった。
(了)