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fld_nor.gif 夜の恥じらい
投稿日 : 2025/06/01(Sun) 09:51
投稿者 ベンジー
参照先 http://www.benjee.org


 『夜の恥じらい』





夜10時を過ぎたばかり、仕事帰りの咲(さき)は、最寄りのコンビニで夕食と缶チューハイを買い、自宅マンションへと向かっていた。

大通りから一本外れた静かな路地に差しかかったとき、不意に視界の隅に白い肌が見えた。立ち止まり、目を凝らす。

そこにいたのは、年のころは中学生くらいに見える少女。長い髪が風に揺れ、身に着けているのはレースのショーツ一枚だけ。

「……え?」

咲は一瞬、自分の目を疑った。

「大丈夫? どうしたの、そんな格好で」

少女は咲の目をまっすぐに見て、小さな声で言った。

「恥ずかしいことするのが、好きなんです」

咲は凍りついた。冗談とは思えない。けれど、そこには嘘のない、透明な感情が漂っていた。

「……名前は? 家は? 親はどこ?」

少女は首を振った。

「教えません。今夜だけでいいから、見逃してください。忘れてください」





咲は迷っていた。関わらない方がいい。通報すべきなのか。けれど、少女の身体はほんのり震えていて、唇は少し紫がかっている。

「うち、すぐそこだから。……少しだけ、入っていく?」

少女は一瞬驚いたような顔をしたが、黙ってうなずいた。

咲の部屋は、ワンルームのシンプルな造り。少女を玄関に立たせたまま、咲はバスタオルを一枚取り出してそっと肩にかけた。

「名前、教えてくれる? 仮のでもいいから」

「……灯(あかり)って呼んでください」

「灯ちゃん。いい名前だね」

咲はポットでお湯を沸かしながら、少しずつ少女の様子をうかがった。灯は部屋を見回し、物に触れることもなく、まるでその場にいることすらためらっているようだった。

「何か食べる?」

「いいえ。でも……ここ、落ち着きます」

咲は笑った。「それはよかった。……ねえ、どうしてあんな格好で歩いてたの? 本当の理由、聞かせてくれない?」

灯は少しうつむいてから、ぽつりと答えた。

「心の中がいっぱいになったとき、どうしていいかわからなくなるんです。でも、誰かに見られると……『まだ私はここにいる』って、思えるんです」

咲はその言葉に、妙に納得してしまった。自分にも、そんな感覚が少しだけあった気がした。





咲は灯の言葉を胸の中で何度も繰り返していた。

**「誰かに見られると、『まだ私はここにいる』って、思えるんです」**

その感覚。分かるような、怖いような。

咲は、誰にも言っていないけれど??社会に溶け込むのが得意ではなかった。人付き合いも、恋愛も、どこかぎこちない。毎朝、満員電車で誰かとぶつかっても、まるで幽霊みたいに扱われる瞬間があった。

「咲さんは、寂しいですか?」

不意に、灯が口を開いた。

「え?」

「ここ、すごくきれいにしてあるのに、人の気配がしない。……なんだか、そんな気がして」

咲は答えに詰まった。寂しいなんて、普段は考えないようにしていた。仕事が忙しいのを言い訳に、ずっと避けてきた感情。

「うん。たぶん……そうかもね」

灯は咲の顔をじっと見つめて、初めて小さく笑った。

「じゃあ、私と似てるかもしれませんね」

***

その夜、咲は灯をソファに寝かせ、毛布をかけてから、隣のベッドに横になった。

深夜2時。眠れないまま天井を見つめていた咲は、小さな寝息が聞こえる方へ目を向けた。

灯は丸まった姿で、まるで傷ついた小動物のようだった。咲は思った。

**この子は、助けが必要だ。
でも、それ以上に??
私の方こそ、この子に救われているのかもしれない。**

***

朝、目を覚ました咲は、灯の姿がないことに気づく。玄関に目をやると、そこに一枚のメモが置かれていた。

> 「ありがとう、咲さん。
> 昨日、ちゃんと生きてるって思えました。
> また、会いにきてもいいですか?」

咲はその紙をしばらく見つめていた。微笑みが、自然と口元に浮かんでいた。





メモの置かれた朝から三日が経った。

咲は会社と自宅を往復するいつも通りの生活に戻ったものの、胸の奥には小さな空洞が残ったままだった。ふとした瞬間に思い出すのは、裸足で路地に立っていた少女と、彼女のまっすぐな瞳。

そして、あの言葉??**「また、会いにきてもいいですか?」**

咲は、その答えをまだ自分の中で出せずにいた。

***

土曜の午後。咲はかつて通っていたカウンセリングルームの前で立ち止まっていた。

「……来たの、2年ぶりくらいですね」

受付の女性は驚きながらも、優しく笑ってくれた。

咲は静かにうなずきながら答えた。「急に思い出して。……誰かと、話したくなったんです」

咲がカウンセリングに通っていたのは、27歳のとき??職場での孤立、短い恋人関係の終わり、親との確執が一気に押し寄せた頃だった。あのとき、「自分がここにいても意味なんてない」と思ってしまった夜があった。

だから、灯の言葉が胸に刺さったのだ。

**「まだ私はここにいる」??あれは、私自身の叫びだったんだ**

***

その日の夜、チャイムが鳴った。

咲はすぐには動けなかった。胸が騒ぎ出すのを感じたからだ。深呼吸して、ゆっくりドアを開ける。

そこにいたのは??灯だった。今度は、ちゃんと服を着ていた。白いワンピースと、少し汚れたスニーカー。

「こんばんは。また来ちゃいました」

咲は、何も言わずに灯を抱きしめた。

「……うん。来てくれて、ありがとう」

灯は少し驚いてから、小さく背中を叩いて言った。

「泣いてもいいですよ」

咲は、声も出せずに笑った。どうしてこの子は、こんなに人の心を見透かすようなことが言えるんだろう。





咲の部屋の窓から、夕焼けがゆっくり沈んでいく。オレンジ色の光がカーテン越しに部屋を包み、灯の横顔をやわらかく照らしていた。

「お風呂、入る? 洗濯もしとくよ」

「うん。……ありがとう」

洗面所からシャワーの音が聞こえる間、咲は灯のスニーカーをそっと手に取った。泥の跡、かかとの擦り切れ、古くなったロゴ。ずっと、どこかを歩き回っていたのだろうと想像できた。

20分ほどして、髪を濡らしたままの灯が出てきた。貸したTシャツが少し大きく、袖が肘まで下がっている。まるで年の離れた妹ができたようだった。

***

夕食後、二人は床に座ってココアを飲みながら、ぽつぽつと話を始めた。

「……親は、いないの?」

灯はしばらく黙っていた。やがて、表情を崩さずに言った。

「母は、います。でも、もう何年も一緒には暮らしてません。恋人ができて……私を置いて、出て行きました」

「……それって、何歳のとき?」

「9歳のとき。家の前に5000円札と、手紙が置かれてました。『強く生きなさい』って書かれてた」

咲は言葉を失った。想像を絶する現実が、淡々と語られることの重さ。

「その後は?」

「施設にも少し。でも、逃げました。……誰かの『かわいそう』って目が、耐えられなかったから」

灯はカップを持つ指を少しだけ震わせた。

「それで、気づいたんです。服を脱いで人前に出ると、みんな一瞬、本気で驚いてくれる。呆れて、怒って、それでも見てくれる」

「それが、『恥ずかしいのが好き』ってこと?」

「うん……見てほしかっただけなんです。ほんとは、ずっと」

その声は、どこまでも静かだった。

咲は、自分の中にうずくまっていた少女??かつての自分を見ているような気がしていた。

「じゃあ、ここでは無理に脱がなくていい。誰かに見せなくても、あなたがここにいるって、私は知ってるから」

灯は初めて、涙をこぼした。頬に一筋、熱い雫が流れる。

「ありがとう……咲さん」

咲はそっと灯の手を握った。





灯は咲の部屋に「居候」するようになった。最初は数日に一度、やがて週の半分、そして今では、ほとんど帰らなくなった。

咲は特に問い詰めなかった。どこに帰るのか、どんな生活を送っていたのか。それを聞くことで、灯の心がまた閉ざされる気がしていたから。

「今日ね、ベランダに出たの。朝の光、すごくきれいだった」

「そう。よかったね」

「この部屋、空気がやさしい。咲さんがやさしいからかな」

咲は笑った。「空気にまで気をつかってるつもりはないけどね」

***

ある日曜日の昼下がり。

咲は灯に、古着屋で買ったワンピースを手渡した。淡い水色で、胸元に小さなレースの飾りがついている。

「これ、灯ちゃんに似合いそうだなって思って」

灯は受け取る手をしばらく動かさず、目を伏せたまま言った。

「……私、着ていいの? こういうの、ずっと着たかった」

「もちろん。好きに着て。もう“見られるため”じゃなく、自分のために着てほしいな」

***

その日の午後、二人で近くの川沿いを歩いた。咲にとっては何年ぶりかの「ただの散歩」だった。

「咲さん、前に言ってたよね。『人付き合いが苦手』って」

「うん。そうだね。怖かった。自分がちゃんと“ここにいていい”って思えることが、あまりなかったから」

「じゃあ、今は?」

咲はしばらく黙って、灯の横顔を見た。

「……今は、少し違う。誰かが“ここにいてくれていい”って言ってくれるって、こんなに温かいんだなって思ったから」

灯は小さくうなずいた。

「私も、そう思えるようになりたい」

***

部屋に戻ったとき、灯が突然つぶやいた。

「私、ちゃんと名前で呼ばれたの、すごく久しぶりだった。『灯ちゃん』って言われると、私が“ひとり”じゃないみたいで」

咲はそっと灯の肩に手を置いた。

「あなたは、もう“ひとり”じゃないよ」

灯は少しだけ微笑んで、うなずいた。





雨上がりの午後。咲はカーテン越しに、アスファルトの匂いが立ち上る音を聴いていた。

灯はダイニングテーブルに座り、なにやら小さな紙を折っていた。折り鶴だった。器用とは言えない手つきだったが、一羽ずつ丁寧に形をつくっているのが分かる。

「どうしたの、それ」

「……なんとなく。手を動かしてると、考えごとが整理される気がして」

咲はコーヒーを淹れながら、ふと思い出したように言った。

「ねえ、灯ちゃん。……お母さんには、会いたい?」

その問いに、灯は手を止めた。折りかけの紙をそっと置き、少し間を空けてから静かに答えた。

「わからない。会ってみたい気もする。何かを確かめたいのかもしれない。でも……怖い。『やっぱりいらなかった』って思われるのが」

咲はうなずいた。「うん、分かるよ。私も、家を出たときそうだった。電話一本で済むはずの距離が、一番遠く感じて」

灯は咲の目を見て、目を伏せた。

「咲さんは、家族と今も……?」

「今は年に一回会うくらい。でも、距離を置いたことで、少しずつお互いに分かるようになった気がする。……無理して仲直りしなくても、ちゃんと“生きてる”って伝え合うだけで、十分だったりするよ」

***

数日後、灯が小さな封筒を持っていた。咲の机の上に、そっと置かれたそれには「おかあさんへ」と書かれていた。

「……まだ出すかわからないけど、書いてみた」

咲は封筒を指ではじいて言った。

「出さなくてもいい。でも、書けたってことが、もう前に進んでるってことだよ」

灯は小さくうなずいた。

***

その夜、ふたりで夜のベランダに出た。

星は少なかったが、灯りのない空がどこか静けさを感じさせた。灯がつぶやく。

「私ね、“恥ずかしいことが好き”って言ってたけど、本当は“見捨てられるのが怖かった”だけだった」

咲は何も言わず、その肩に毛布をかけた。

「もう、見捨てないよ。何があっても」

灯は一瞬、息をのんでから、ぽつりとつぶやいた。

「……ありがとう。咲さんがいてくれて、ほんとによかった」

その言葉が、夜の静けさの中で、やさしく響いた。





朝、ゆっくりと目覚めた咲は、カーテン越しに差し込む光のやわらかさに気づいた。灯がいない。そう思ってリビングへ出ると、灯は玄関に座って靴ひもを結んでいた。

手には、あの手紙。

「……行ってくるね」

咲は少しだけ驚いたあと、そっとうなずいた。

「大丈夫?」

「うん、たぶん。でも、一人で行ける。自分の足で行きたいの。今日、渡せなくてもいい。ただ“ここに来た”ってことだけ、伝えられたら」

咲は玄関の壁に寄りかかり、少し笑って言った。

「灯ちゃん、強くなったね」

「咲さんが強いから、私も真似したの」

その言葉に、咲の胸の奥がじんわりと温かくなる。

「いってらっしゃい。気をつけてね」

灯は小さく手を振って、ドアの向こうへと消えていった。

***

その間、咲は久しぶりにパソコンを開き、履歴書のフォーマットを見つめていた。

この2年、仕事はただ「こなす」ものだった。昇進の打診も断り、将来のことは考えないようにしていた。けれど、灯と過ごした日々が咲に教えてくれた。

**??私も、誰かの居場所になれる。
そして、私自身も、“誰かに見ていてほしい”と思っていた。**

画面のカーソルが点滅している。咲は一行目に名前を入力し、ふっと息をついた。

「さて。こっちも始めなきゃね」

***

夕方、ドアのチャイムが鳴いた。

開けると、灯が立っていた。手には、くしゃくしゃになったハンカチと、空っぽの封筒。

「渡せたの?」

「……うん。直接は会えなかった。でも、ポストに入れてきた。誰にも気づかれないくらいの、ちっちゃな一歩だけど」

咲は微笑んだ。

「十分だよ。よくがんばったね」

灯はうなずいたあと、少し首をかしげて言った。

「咲さん、髪……切った?」

「ばれた? 気分転換。明日、面接なんだ」

「へえ、どんな仕事?」

「人と関わる仕事。……たぶん、前よりずっと、ちゃんとできる気がしてる」

灯は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、今度は私が応援する番だね」

その笑顔に、咲は静かにうなずいた。

**誰かを救うことは、
同時に、自分の奥にある傷をやさしく撫でることでもある。**

そして、その癒しは、決して劇的ではなく、
ただ「となりに誰かがいる」という事実によって、
ゆっくりと進んでいくのだ。





春の匂いがする風が、東京の街をやわらかく包んでいた。

咲は駅前のカフェで、白いシャツにベージュのパンツという、どこか清潔感のある服装でノートパソコンを開いていた。
今、彼女は**NPO法人の相談員**として働いている。家庭に居場所のない若者たち、学校に行けない子たち、そして??かつての灯のように「見てもらいたい」と願う声なき人々に向き合っている。

忙しい日々だが、咲は一度も「疲れた」と言わなくなった。
それは、自分が「ここにいていい」と思える仕事だったからだ。

***

カフェのドアが開き、細身の少女が姿を見せた。

灯だった。

今日で17歳になったという。制服ではなく、咲があげたワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。
少し背が伸び、表情に自信のようなものが宿っていた。

「久しぶりだね」

「うん。来るまでドキドキしてたけど……会えてよかった」

咲は静かにコーヒーをすすめ、灯はそれを受け取って、ふたりはしばらく黙って座った。

「お母さんから、返事来たの」

灯がぽつりとつぶやいた。

咲は顔を上げた。

「短い手紙だった。“元気ですか”って、それだけ。でも……それでよかった。ちゃんと生きてるって、わかったから」

咲はそっと手を伸ばし、灯の手に触れた。

「それで十分。ちゃんと、つながったんだね」

灯は笑った。その笑顔は、最初に出会った夜の、あの傷ついた表情とはまるで違うものだった。

「私ね、来年から通信制の高校に行く。ゆっくりでいいから、自分の足で立ちたいと思って」

「うん。それがきっと、“強さ”ってやつだよ」

ふたりは小さく乾杯した。カップの音が、やわらかく響いた。

***

別れ際、灯が言った。

「咲さん。私、あなたに会えてよかった。
“恥ずかしい”って思ってた自分を、恥じなくてよくなったから。
それって、自分を好きになれたってことだよね」

咲はうなずいた。

「私も、灯ちゃんのおかげで、自分をやっと肯定できた。だから、ありがとう」

そして、ふたりは静かに手を振って別れた。

それは、「さよなら」ではなかった。
またどこかで、ふとしたタイミングで、きっと会える。
たとえ別々の道を歩いても、あの夜から続く絆は、どこかで確かに生きている。

**“まだ私はここにいる”**

あのときの灯の言葉は、今??
**“ここにいるだけで、十分だ”**
という、強くやさしい祈りへと変わっていた。

---

**― 完 ―**
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