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夜の恥じらい
投稿日
: 2025/06/01(Sun) 09:51
投稿者
:
ベンジー
参照先
:
http://www.benjee.org
『夜の恥じらい』
1
夜10時を過ぎたばかり、仕事帰りの咲(さき)は、最寄りのコンビニで夕食と缶チューハイを買い、自宅マンションへと向かっていた。
大通りから一本外れた静かな路地に差しかかったとき、不意に視界の隅に白い肌が見えた。立ち止まり、目を凝らす。
そこにいたのは、年のころは中学生くらいに見える少女。長い髪が風に揺れ、身に着けているのはレースのショーツ一枚だけ。
「……え?」
咲は一瞬、自分の目を疑った。
「大丈夫? どうしたの、そんな格好で」
少女は咲の目をまっすぐに見て、小さな声で言った。
「恥ずかしいことするのが、好きなんです」
咲は凍りついた。冗談とは思えない。けれど、そこには嘘のない、透明な感情が漂っていた。
「……名前は? 家は? 親はどこ?」
少女は首を振った。
「教えません。今夜だけでいいから、見逃してください。忘れてください」
2
咲は迷っていた。関わらない方がいい。通報すべきなのか。けれど、少女の身体はほんのり震えていて、唇は少し紫がかっている。
「うち、すぐそこだから。……少しだけ、入っていく?」
少女は一瞬驚いたような顔をしたが、黙ってうなずいた。
咲の部屋は、ワンルームのシンプルな造り。少女を玄関に立たせたまま、咲はバスタオルを一枚取り出してそっと肩にかけた。
「名前、教えてくれる? 仮のでもいいから」
「……灯(あかり)って呼んでください」
「灯ちゃん。いい名前だね」
咲はポットでお湯を沸かしながら、少しずつ少女の様子をうかがった。灯は部屋を見回し、物に触れることもなく、まるでその場にいることすらためらっているようだった。
「何か食べる?」
「いいえ。でも……ここ、落ち着きます」
咲は笑った。「それはよかった。……ねえ、どうしてあんな格好で歩いてたの? 本当の理由、聞かせてくれない?」
灯は少しうつむいてから、ぽつりと答えた。
「心の中がいっぱいになったとき、どうしていいかわからなくなるんです。でも、誰かに見られると……『まだ私はここにいる』って、思えるんです」
咲はその言葉に、妙に納得してしまった。自分にも、そんな感覚が少しだけあった気がした。
3
咲は灯の言葉を胸の中で何度も繰り返していた。
**「誰かに見られると、『まだ私はここにいる』って、思えるんです」**
その感覚。分かるような、怖いような。
咲は、誰にも言っていないけれど??社会に溶け込むのが得意ではなかった。人付き合いも、恋愛も、どこかぎこちない。毎朝、満員電車で誰かとぶつかっても、まるで幽霊みたいに扱われる瞬間があった。
「咲さんは、寂しいですか?」
不意に、灯が口を開いた。
「え?」
「ここ、すごくきれいにしてあるのに、人の気配がしない。……なんだか、そんな気がして」
咲は答えに詰まった。寂しいなんて、普段は考えないようにしていた。仕事が忙しいのを言い訳に、ずっと避けてきた感情。
「うん。たぶん……そうかもね」
灯は咲の顔をじっと見つめて、初めて小さく笑った。
「じゃあ、私と似てるかもしれませんね」
***
その夜、咲は灯をソファに寝かせ、毛布をかけてから、隣のベッドに横になった。
深夜2時。眠れないまま天井を見つめていた咲は、小さな寝息が聞こえる方へ目を向けた。
灯は丸まった姿で、まるで傷ついた小動物のようだった。咲は思った。
**この子は、助けが必要だ。
でも、それ以上に??
私の方こそ、この子に救われているのかもしれない。**
***
朝、目を覚ました咲は、灯の姿がないことに気づく。玄関に目をやると、そこに一枚のメモが置かれていた。
> 「ありがとう、咲さん。
> 昨日、ちゃんと生きてるって思えました。
> また、会いにきてもいいですか?」
咲はその紙をしばらく見つめていた。微笑みが、自然と口元に浮かんでいた。
4
メモの置かれた朝から三日が経った。
咲は会社と自宅を往復するいつも通りの生活に戻ったものの、胸の奥には小さな空洞が残ったままだった。ふとした瞬間に思い出すのは、裸足で路地に立っていた少女と、彼女のまっすぐな瞳。
そして、あの言葉??**「また、会いにきてもいいですか?」**
咲は、その答えをまだ自分の中で出せずにいた。
***
土曜の午後。咲はかつて通っていたカウンセリングルームの前で立ち止まっていた。
「……来たの、2年ぶりくらいですね」
受付の女性は驚きながらも、優しく笑ってくれた。
咲は静かにうなずきながら答えた。「急に思い出して。……誰かと、話したくなったんです」
咲がカウンセリングに通っていたのは、27歳のとき??職場での孤立、短い恋人関係の終わり、親との確執が一気に押し寄せた頃だった。あのとき、「自分がここにいても意味なんてない」と思ってしまった夜があった。
だから、灯の言葉が胸に刺さったのだ。
**「まだ私はここにいる」??あれは、私自身の叫びだったんだ**
***
その日の夜、チャイムが鳴った。
咲はすぐには動けなかった。胸が騒ぎ出すのを感じたからだ。深呼吸して、ゆっくりドアを開ける。
そこにいたのは??灯だった。今度は、ちゃんと服を着ていた。白いワンピースと、少し汚れたスニーカー。
「こんばんは。また来ちゃいました」
咲は、何も言わずに灯を抱きしめた。
「……うん。来てくれて、ありがとう」
灯は少し驚いてから、小さく背中を叩いて言った。
「泣いてもいいですよ」
咲は、声も出せずに笑った。どうしてこの子は、こんなに人の心を見透かすようなことが言えるんだろう。
5
咲の部屋の窓から、夕焼けがゆっくり沈んでいく。オレンジ色の光がカーテン越しに部屋を包み、灯の横顔をやわらかく照らしていた。
「お風呂、入る? 洗濯もしとくよ」
「うん。……ありがとう」
洗面所からシャワーの音が聞こえる間、咲は灯のスニーカーをそっと手に取った。泥の跡、かかとの擦り切れ、古くなったロゴ。ずっと、どこかを歩き回っていたのだろうと想像できた。
20分ほどして、髪を濡らしたままの灯が出てきた。貸したTシャツが少し大きく、袖が肘まで下がっている。まるで年の離れた妹ができたようだった。
***
夕食後、二人は床に座ってココアを飲みながら、ぽつぽつと話を始めた。
「……親は、いないの?」
灯はしばらく黙っていた。やがて、表情を崩さずに言った。
「母は、います。でも、もう何年も一緒には暮らしてません。恋人ができて……私を置いて、出て行きました」
「……それって、何歳のとき?」
「9歳のとき。家の前に5000円札と、手紙が置かれてました。『強く生きなさい』って書かれてた」
咲は言葉を失った。想像を絶する現実が、淡々と語られることの重さ。
「その後は?」
「施設にも少し。でも、逃げました。……誰かの『かわいそう』って目が、耐えられなかったから」
灯はカップを持つ指を少しだけ震わせた。
「それで、気づいたんです。服を脱いで人前に出ると、みんな一瞬、本気で驚いてくれる。呆れて、怒って、それでも見てくれる」
「それが、『恥ずかしいのが好き』ってこと?」
「うん……見てほしかっただけなんです。ほんとは、ずっと」
その声は、どこまでも静かだった。
咲は、自分の中にうずくまっていた少女??かつての自分を見ているような気がしていた。
「じゃあ、ここでは無理に脱がなくていい。誰かに見せなくても、あなたがここにいるって、私は知ってるから」
灯は初めて、涙をこぼした。頬に一筋、熱い雫が流れる。
「ありがとう……咲さん」
咲はそっと灯の手を握った。
6
灯は咲の部屋に「居候」するようになった。最初は数日に一度、やがて週の半分、そして今では、ほとんど帰らなくなった。
咲は特に問い詰めなかった。どこに帰るのか、どんな生活を送っていたのか。それを聞くことで、灯の心がまた閉ざされる気がしていたから。
「今日ね、ベランダに出たの。朝の光、すごくきれいだった」
「そう。よかったね」
「この部屋、空気がやさしい。咲さんがやさしいからかな」
咲は笑った。「空気にまで気をつかってるつもりはないけどね」
***
ある日曜日の昼下がり。
咲は灯に、古着屋で買ったワンピースを手渡した。淡い水色で、胸元に小さなレースの飾りがついている。
「これ、灯ちゃんに似合いそうだなって思って」
灯は受け取る手をしばらく動かさず、目を伏せたまま言った。
「……私、着ていいの? こういうの、ずっと着たかった」
「もちろん。好きに着て。もう“見られるため”じゃなく、自分のために着てほしいな」
***
その日の午後、二人で近くの川沿いを歩いた。咲にとっては何年ぶりかの「ただの散歩」だった。
「咲さん、前に言ってたよね。『人付き合いが苦手』って」
「うん。そうだね。怖かった。自分がちゃんと“ここにいていい”って思えることが、あまりなかったから」
「じゃあ、今は?」
咲はしばらく黙って、灯の横顔を見た。
「……今は、少し違う。誰かが“ここにいてくれていい”って言ってくれるって、こんなに温かいんだなって思ったから」
灯は小さくうなずいた。
「私も、そう思えるようになりたい」
***
部屋に戻ったとき、灯が突然つぶやいた。
「私、ちゃんと名前で呼ばれたの、すごく久しぶりだった。『灯ちゃん』って言われると、私が“ひとり”じゃないみたいで」
咲はそっと灯の肩に手を置いた。
「あなたは、もう“ひとり”じゃないよ」
灯は少しだけ微笑んで、うなずいた。
7
雨上がりの午後。咲はカーテン越しに、アスファルトの匂いが立ち上る音を聴いていた。
灯はダイニングテーブルに座り、なにやら小さな紙を折っていた。折り鶴だった。器用とは言えない手つきだったが、一羽ずつ丁寧に形をつくっているのが分かる。
「どうしたの、それ」
「……なんとなく。手を動かしてると、考えごとが整理される気がして」
咲はコーヒーを淹れながら、ふと思い出したように言った。
「ねえ、灯ちゃん。……お母さんには、会いたい?」
その問いに、灯は手を止めた。折りかけの紙をそっと置き、少し間を空けてから静かに答えた。
「わからない。会ってみたい気もする。何かを確かめたいのかもしれない。でも……怖い。『やっぱりいらなかった』って思われるのが」
咲はうなずいた。「うん、分かるよ。私も、家を出たときそうだった。電話一本で済むはずの距離が、一番遠く感じて」
灯は咲の目を見て、目を伏せた。
「咲さんは、家族と今も……?」
「今は年に一回会うくらい。でも、距離を置いたことで、少しずつお互いに分かるようになった気がする。……無理して仲直りしなくても、ちゃんと“生きてる”って伝え合うだけで、十分だったりするよ」
***
数日後、灯が小さな封筒を持っていた。咲の机の上に、そっと置かれたそれには「おかあさんへ」と書かれていた。
「……まだ出すかわからないけど、書いてみた」
咲は封筒を指ではじいて言った。
「出さなくてもいい。でも、書けたってことが、もう前に進んでるってことだよ」
灯は小さくうなずいた。
***
その夜、ふたりで夜のベランダに出た。
星は少なかったが、灯りのない空がどこか静けさを感じさせた。灯がつぶやく。
「私ね、“恥ずかしいことが好き”って言ってたけど、本当は“見捨てられるのが怖かった”だけだった」
咲は何も言わず、その肩に毛布をかけた。
「もう、見捨てないよ。何があっても」
灯は一瞬、息をのんでから、ぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう。咲さんがいてくれて、ほんとによかった」
その言葉が、夜の静けさの中で、やさしく響いた。
8
朝、ゆっくりと目覚めた咲は、カーテン越しに差し込む光のやわらかさに気づいた。灯がいない。そう思ってリビングへ出ると、灯は玄関に座って靴ひもを結んでいた。
手には、あの手紙。
「……行ってくるね」
咲は少しだけ驚いたあと、そっとうなずいた。
「大丈夫?」
「うん、たぶん。でも、一人で行ける。自分の足で行きたいの。今日、渡せなくてもいい。ただ“ここに来た”ってことだけ、伝えられたら」
咲は玄関の壁に寄りかかり、少し笑って言った。
「灯ちゃん、強くなったね」
「咲さんが強いから、私も真似したの」
その言葉に、咲の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
灯は小さく手を振って、ドアの向こうへと消えていった。
***
その間、咲は久しぶりにパソコンを開き、履歴書のフォーマットを見つめていた。
この2年、仕事はただ「こなす」ものだった。昇進の打診も断り、将来のことは考えないようにしていた。けれど、灯と過ごした日々が咲に教えてくれた。
**??私も、誰かの居場所になれる。
そして、私自身も、“誰かに見ていてほしい”と思っていた。**
画面のカーソルが点滅している。咲は一行目に名前を入力し、ふっと息をついた。
「さて。こっちも始めなきゃね」
***
夕方、ドアのチャイムが鳴いた。
開けると、灯が立っていた。手には、くしゃくしゃになったハンカチと、空っぽの封筒。
「渡せたの?」
「……うん。直接は会えなかった。でも、ポストに入れてきた。誰にも気づかれないくらいの、ちっちゃな一歩だけど」
咲は微笑んだ。
「十分だよ。よくがんばったね」
灯はうなずいたあと、少し首をかしげて言った。
「咲さん、髪……切った?」
「ばれた? 気分転換。明日、面接なんだ」
「へえ、どんな仕事?」
「人と関わる仕事。……たぶん、前よりずっと、ちゃんとできる気がしてる」
灯は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度は私が応援する番だね」
その笑顔に、咲は静かにうなずいた。
**誰かを救うことは、
同時に、自分の奥にある傷をやさしく撫でることでもある。**
そして、その癒しは、決して劇的ではなく、
ただ「となりに誰かがいる」という事実によって、
ゆっくりと進んでいくのだ。
9
春の匂いがする風が、東京の街をやわらかく包んでいた。
咲は駅前のカフェで、白いシャツにベージュのパンツという、どこか清潔感のある服装でノートパソコンを開いていた。
今、彼女は**NPO法人の相談員**として働いている。家庭に居場所のない若者たち、学校に行けない子たち、そして??かつての灯のように「見てもらいたい」と願う声なき人々に向き合っている。
忙しい日々だが、咲は一度も「疲れた」と言わなくなった。
それは、自分が「ここにいていい」と思える仕事だったからだ。
***
カフェのドアが開き、細身の少女が姿を見せた。
灯だった。
今日で17歳になったという。制服ではなく、咲があげたワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。
少し背が伸び、表情に自信のようなものが宿っていた。
「久しぶりだね」
「うん。来るまでドキドキしてたけど……会えてよかった」
咲は静かにコーヒーをすすめ、灯はそれを受け取って、ふたりはしばらく黙って座った。
「お母さんから、返事来たの」
灯がぽつりとつぶやいた。
咲は顔を上げた。
「短い手紙だった。“元気ですか”って、それだけ。でも……それでよかった。ちゃんと生きてるって、わかったから」
咲はそっと手を伸ばし、灯の手に触れた。
「それで十分。ちゃんと、つながったんだね」
灯は笑った。その笑顔は、最初に出会った夜の、あの傷ついた表情とはまるで違うものだった。
「私ね、来年から通信制の高校に行く。ゆっくりでいいから、自分の足で立ちたいと思って」
「うん。それがきっと、“強さ”ってやつだよ」
ふたりは小さく乾杯した。カップの音が、やわらかく響いた。
***
別れ際、灯が言った。
「咲さん。私、あなたに会えてよかった。
“恥ずかしい”って思ってた自分を、恥じなくてよくなったから。
それって、自分を好きになれたってことだよね」
咲はうなずいた。
「私も、灯ちゃんのおかげで、自分をやっと肯定できた。だから、ありがとう」
そして、ふたりは静かに手を振って別れた。
それは、「さよなら」ではなかった。
またどこかで、ふとしたタイミングで、きっと会える。
たとえ別々の道を歩いても、あの夜から続く絆は、どこかで確かに生きている。
**“まだ私はここにいる”**
あのときの灯の言葉は、今??
**“ここにいるだけで、十分だ”**
という、強くやさしい祈りへと変わっていた。
---
**― 完 ―**
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『夜の恥じらい』
1
夜10時を過ぎたばかり、仕事帰りの咲(さき)は、最寄りのコンビニで夕食と缶チューハイを買い、自宅マンションへと向かっていた。
大通りから一本外れた静かな路地に差しかかったとき、不意に視界の隅に白い肌が見えた。立ち止まり、目を凝らす。
そこにいたのは、年のころは中学生くらいに見える少女。長い髪が風に揺れ、身に着けているのはレースのショーツ一枚だけ。
「……え?」
咲は一瞬、自分の目を疑った。
「大丈夫? どうしたの、そんな格好で」
少女は咲の目をまっすぐに見て、小さな声で言った。
「恥ずかしいことするのが、好きなんです」
咲は凍りついた。冗談とは思えない。けれど、そこには嘘のない、透明な感情が漂っていた。
「……名前は? 家は? 親はどこ?」
少女は首を振った。
「教えません。今夜だけでいいから、見逃してください。忘れてください」
2
咲は迷っていた。関わらない方がいい。通報すべきなのか。けれど、少女の身体はほんのり震えていて、唇は少し紫がかっている。
「うち、すぐそこだから。……少しだけ、入っていく?」
少女は一瞬驚いたような顔をしたが、黙ってうなずいた。
咲の部屋は、ワンルームのシンプルな造り。少女を玄関に立たせたまま、咲はバスタオルを一枚取り出してそっと肩にかけた。
「名前、教えてくれる? 仮のでもいいから」
「……灯(あかり)って呼んでください」
「灯ちゃん。いい名前だね」
咲はポットでお湯を沸かしながら、少しずつ少女の様子をうかがった。灯は部屋を見回し、物に触れることもなく、まるでその場にいることすらためらっているようだった。
「何か食べる?」
「いいえ。でも……ここ、落ち着きます」
咲は笑った。「それはよかった。……ねえ、どうしてあんな格好で歩いてたの? 本当の理由、聞かせてくれない?」
灯は少しうつむいてから、ぽつりと答えた。
「心の中がいっぱいになったとき、どうしていいかわからなくなるんです。でも、誰かに見られると……『まだ私はここにいる』って、思えるんです」
咲はその言葉に、妙に納得してしまった。自分にも、そんな感覚が少しだけあった気がした。
3
咲は灯の言葉を胸の中で何度も繰り返していた。
**「誰かに見られると、『まだ私はここにいる』って、思えるんです」**
その感覚。分かるような、怖いような。
咲は、誰にも言っていないけれど??社会に溶け込むのが得意ではなかった。人付き合いも、恋愛も、どこかぎこちない。毎朝、満員電車で誰かとぶつかっても、まるで幽霊みたいに扱われる瞬間があった。
「咲さんは、寂しいですか?」
不意に、灯が口を開いた。
「え?」
「ここ、すごくきれいにしてあるのに、人の気配がしない。……なんだか、そんな気がして」
咲は答えに詰まった。寂しいなんて、普段は考えないようにしていた。仕事が忙しいのを言い訳に、ずっと避けてきた感情。
「うん。たぶん……そうかもね」
灯は咲の顔をじっと見つめて、初めて小さく笑った。
「じゃあ、私と似てるかもしれませんね」
***
その夜、咲は灯をソファに寝かせ、毛布をかけてから、隣のベッドに横になった。
深夜2時。眠れないまま天井を見つめていた咲は、小さな寝息が聞こえる方へ目を向けた。
灯は丸まった姿で、まるで傷ついた小動物のようだった。咲は思った。
**この子は、助けが必要だ。
でも、それ以上に??
私の方こそ、この子に救われているのかもしれない。**
***
朝、目を覚ました咲は、灯の姿がないことに気づく。玄関に目をやると、そこに一枚のメモが置かれていた。
> 「ありがとう、咲さん。
> 昨日、ちゃんと生きてるって思えました。
> また、会いにきてもいいですか?」
咲はその紙をしばらく見つめていた。微笑みが、自然と口元に浮かんでいた。
4
メモの置かれた朝から三日が経った。
咲は会社と自宅を往復するいつも通りの生活に戻ったものの、胸の奥には小さな空洞が残ったままだった。ふとした瞬間に思い出すのは、裸足で路地に立っていた少女と、彼女のまっすぐな瞳。
そして、あの言葉??**「また、会いにきてもいいですか?」**
咲は、その答えをまだ自分の中で出せずにいた。
***
土曜の午後。咲はかつて通っていたカウンセリングルームの前で立ち止まっていた。
「……来たの、2年ぶりくらいですね」
受付の女性は驚きながらも、優しく笑ってくれた。
咲は静かにうなずきながら答えた。「急に思い出して。……誰かと、話したくなったんです」
咲がカウンセリングに通っていたのは、27歳のとき??職場での孤立、短い恋人関係の終わり、親との確執が一気に押し寄せた頃だった。あのとき、「自分がここにいても意味なんてない」と思ってしまった夜があった。
だから、灯の言葉が胸に刺さったのだ。
**「まだ私はここにいる」??あれは、私自身の叫びだったんだ**
***
その日の夜、チャイムが鳴った。
咲はすぐには動けなかった。胸が騒ぎ出すのを感じたからだ。深呼吸して、ゆっくりドアを開ける。
そこにいたのは??灯だった。今度は、ちゃんと服を着ていた。白いワンピースと、少し汚れたスニーカー。
「こんばんは。また来ちゃいました」
咲は、何も言わずに灯を抱きしめた。
「……うん。来てくれて、ありがとう」
灯は少し驚いてから、小さく背中を叩いて言った。
「泣いてもいいですよ」
咲は、声も出せずに笑った。どうしてこの子は、こんなに人の心を見透かすようなことが言えるんだろう。
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咲の部屋の窓から、夕焼けがゆっくり沈んでいく。オレンジ色の光がカーテン越しに部屋を包み、灯の横顔をやわらかく照らしていた。
「お風呂、入る? 洗濯もしとくよ」
「うん。……ありがとう」
洗面所からシャワーの音が聞こえる間、咲は灯のスニーカーをそっと手に取った。泥の跡、かかとの擦り切れ、古くなったロゴ。ずっと、どこかを歩き回っていたのだろうと想像できた。
20分ほどして、髪を濡らしたままの灯が出てきた。貸したTシャツが少し大きく、袖が肘まで下がっている。まるで年の離れた妹ができたようだった。
***
夕食後、二人は床に座ってココアを飲みながら、ぽつぽつと話を始めた。
「……親は、いないの?」
灯はしばらく黙っていた。やがて、表情を崩さずに言った。
「母は、います。でも、もう何年も一緒には暮らしてません。恋人ができて……私を置いて、出て行きました」
「……それって、何歳のとき?」
「9歳のとき。家の前に5000円札と、手紙が置かれてました。『強く生きなさい』って書かれてた」
咲は言葉を失った。想像を絶する現実が、淡々と語られることの重さ。
「その後は?」
「施設にも少し。でも、逃げました。……誰かの『かわいそう』って目が、耐えられなかったから」
灯はカップを持つ指を少しだけ震わせた。
「それで、気づいたんです。服を脱いで人前に出ると、みんな一瞬、本気で驚いてくれる。呆れて、怒って、それでも見てくれる」
「それが、『恥ずかしいのが好き』ってこと?」
「うん……見てほしかっただけなんです。ほんとは、ずっと」
その声は、どこまでも静かだった。
咲は、自分の中にうずくまっていた少女??かつての自分を見ているような気がしていた。
「じゃあ、ここでは無理に脱がなくていい。誰かに見せなくても、あなたがここにいるって、私は知ってるから」
灯は初めて、涙をこぼした。頬に一筋、熱い雫が流れる。
「ありがとう……咲さん」
咲はそっと灯の手を握った。
6
灯は咲の部屋に「居候」するようになった。最初は数日に一度、やがて週の半分、そして今では、ほとんど帰らなくなった。
咲は特に問い詰めなかった。どこに帰るのか、どんな生活を送っていたのか。それを聞くことで、灯の心がまた閉ざされる気がしていたから。
「今日ね、ベランダに出たの。朝の光、すごくきれいだった」
「そう。よかったね」
「この部屋、空気がやさしい。咲さんがやさしいからかな」
咲は笑った。「空気にまで気をつかってるつもりはないけどね」
***
ある日曜日の昼下がり。
咲は灯に、古着屋で買ったワンピースを手渡した。淡い水色で、胸元に小さなレースの飾りがついている。
「これ、灯ちゃんに似合いそうだなって思って」
灯は受け取る手をしばらく動かさず、目を伏せたまま言った。
「……私、着ていいの? こういうの、ずっと着たかった」
「もちろん。好きに着て。もう“見られるため”じゃなく、自分のために着てほしいな」
***
その日の午後、二人で近くの川沿いを歩いた。咲にとっては何年ぶりかの「ただの散歩」だった。
「咲さん、前に言ってたよね。『人付き合いが苦手』って」
「うん。そうだね。怖かった。自分がちゃんと“ここにいていい”って思えることが、あまりなかったから」
「じゃあ、今は?」
咲はしばらく黙って、灯の横顔を見た。
「……今は、少し違う。誰かが“ここにいてくれていい”って言ってくれるって、こんなに温かいんだなって思ったから」
灯は小さくうなずいた。
「私も、そう思えるようになりたい」
***
部屋に戻ったとき、灯が突然つぶやいた。
「私、ちゃんと名前で呼ばれたの、すごく久しぶりだった。『灯ちゃん』って言われると、私が“ひとり”じゃないみたいで」
咲はそっと灯の肩に手を置いた。
「あなたは、もう“ひとり”じゃないよ」
灯は少しだけ微笑んで、うなずいた。
7
雨上がりの午後。咲はカーテン越しに、アスファルトの匂いが立ち上る音を聴いていた。
灯はダイニングテーブルに座り、なにやら小さな紙を折っていた。折り鶴だった。器用とは言えない手つきだったが、一羽ずつ丁寧に形をつくっているのが分かる。
「どうしたの、それ」
「……なんとなく。手を動かしてると、考えごとが整理される気がして」
咲はコーヒーを淹れながら、ふと思い出したように言った。
「ねえ、灯ちゃん。……お母さんには、会いたい?」
その問いに、灯は手を止めた。折りかけの紙をそっと置き、少し間を空けてから静かに答えた。
「わからない。会ってみたい気もする。何かを確かめたいのかもしれない。でも……怖い。『やっぱりいらなかった』って思われるのが」
咲はうなずいた。「うん、分かるよ。私も、家を出たときそうだった。電話一本で済むはずの距離が、一番遠く感じて」
灯は咲の目を見て、目を伏せた。
「咲さんは、家族と今も……?」
「今は年に一回会うくらい。でも、距離を置いたことで、少しずつお互いに分かるようになった気がする。……無理して仲直りしなくても、ちゃんと“生きてる”って伝え合うだけで、十分だったりするよ」
***
数日後、灯が小さな封筒を持っていた。咲の机の上に、そっと置かれたそれには「おかあさんへ」と書かれていた。
「……まだ出すかわからないけど、書いてみた」
咲は封筒を指ではじいて言った。
「出さなくてもいい。でも、書けたってことが、もう前に進んでるってことだよ」
灯は小さくうなずいた。
***
その夜、ふたりで夜のベランダに出た。
星は少なかったが、灯りのない空がどこか静けさを感じさせた。灯がつぶやく。
「私ね、“恥ずかしいことが好き”って言ってたけど、本当は“見捨てられるのが怖かった”だけだった」
咲は何も言わず、その肩に毛布をかけた。
「もう、見捨てないよ。何があっても」
灯は一瞬、息をのんでから、ぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう。咲さんがいてくれて、ほんとによかった」
その言葉が、夜の静けさの中で、やさしく響いた。
8
朝、ゆっくりと目覚めた咲は、カーテン越しに差し込む光のやわらかさに気づいた。灯がいない。そう思ってリビングへ出ると、灯は玄関に座って靴ひもを結んでいた。
手には、あの手紙。
「……行ってくるね」
咲は少しだけ驚いたあと、そっとうなずいた。
「大丈夫?」
「うん、たぶん。でも、一人で行ける。自分の足で行きたいの。今日、渡せなくてもいい。ただ“ここに来た”ってことだけ、伝えられたら」
咲は玄関の壁に寄りかかり、少し笑って言った。
「灯ちゃん、強くなったね」
「咲さんが強いから、私も真似したの」
その言葉に、咲の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
灯は小さく手を振って、ドアの向こうへと消えていった。
***
その間、咲は久しぶりにパソコンを開き、履歴書のフォーマットを見つめていた。
この2年、仕事はただ「こなす」ものだった。昇進の打診も断り、将来のことは考えないようにしていた。けれど、灯と過ごした日々が咲に教えてくれた。
**??私も、誰かの居場所になれる。
そして、私自身も、“誰かに見ていてほしい”と思っていた。**
画面のカーソルが点滅している。咲は一行目に名前を入力し、ふっと息をついた。
「さて。こっちも始めなきゃね」
***
夕方、ドアのチャイムが鳴いた。
開けると、灯が立っていた。手には、くしゃくしゃになったハンカチと、空っぽの封筒。
「渡せたの?」
「……うん。直接は会えなかった。でも、ポストに入れてきた。誰にも気づかれないくらいの、ちっちゃな一歩だけど」
咲は微笑んだ。
「十分だよ。よくがんばったね」
灯はうなずいたあと、少し首をかしげて言った。
「咲さん、髪……切った?」
「ばれた? 気分転換。明日、面接なんだ」
「へえ、どんな仕事?」
「人と関わる仕事。……たぶん、前よりずっと、ちゃんとできる気がしてる」
灯は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度は私が応援する番だね」
その笑顔に、咲は静かにうなずいた。
**誰かを救うことは、
同時に、自分の奥にある傷をやさしく撫でることでもある。**
そして、その癒しは、決して劇的ではなく、
ただ「となりに誰かがいる」という事実によって、
ゆっくりと進んでいくのだ。
9
春の匂いがする風が、東京の街をやわらかく包んでいた。
咲は駅前のカフェで、白いシャツにベージュのパンツという、どこか清潔感のある服装でノートパソコンを開いていた。
今、彼女は**NPO法人の相談員**として働いている。家庭に居場所のない若者たち、学校に行けない子たち、そして??かつての灯のように「見てもらいたい」と願う声なき人々に向き合っている。
忙しい日々だが、咲は一度も「疲れた」と言わなくなった。
それは、自分が「ここにいていい」と思える仕事だったからだ。
***
カフェのドアが開き、細身の少女が姿を見せた。
灯だった。
今日で17歳になったという。制服ではなく、咲があげたワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。
少し背が伸び、表情に自信のようなものが宿っていた。
「久しぶりだね」
「うん。来るまでドキドキしてたけど……会えてよかった」
咲は静かにコーヒーをすすめ、灯はそれを受け取って、ふたりはしばらく黙って座った。
「お母さんから、返事来たの」
灯がぽつりとつぶやいた。
咲は顔を上げた。
「短い手紙だった。“元気ですか”って、それだけ。でも……それでよかった。ちゃんと生きてるって、わかったから」
咲はそっと手を伸ばし、灯の手に触れた。
「それで十分。ちゃんと、つながったんだね」
灯は笑った。その笑顔は、最初に出会った夜の、あの傷ついた表情とはまるで違うものだった。
「私ね、来年から通信制の高校に行く。ゆっくりでいいから、自分の足で立ちたいと思って」
「うん。それがきっと、“強さ”ってやつだよ」
ふたりは小さく乾杯した。カップの音が、やわらかく響いた。
***
別れ際、灯が言った。
「咲さん。私、あなたに会えてよかった。
“恥ずかしい”って思ってた自分を、恥じなくてよくなったから。
それって、自分を好きになれたってことだよね」
咲はうなずいた。
「私も、灯ちゃんのおかげで、自分をやっと肯定できた。だから、ありがとう」
そして、ふたりは静かに手を振って別れた。
それは、「さよなら」ではなかった。
またどこかで、ふとしたタイミングで、きっと会える。
たとえ別々の道を歩いても、あの夜から続く絆は、どこかで確かに生きている。
**“まだ私はここにいる”**
あのときの灯の言葉は、今??
**“ここにいるだけで、十分だ”**
という、強くやさしい祈りへと変わっていた。
---
**― 完 ―**