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夜の殻(かわ)②
投稿日
: 2025/06/07(Sat) 17:51
投稿者
:
ベンジー
参照先
:
http://www.benjee.org
**第1日目:封印のはじまり**
その夜、咲は自分でも理由の分からない衝動に突き動かされていた。
部屋の中は静まり返っている。時計は午前1時を指していた。エアコンの風が壁にかすかに当たり、ささやくような音を立てている。
咲はベッドの端に座ったまま、両手で膝を抱えていた。
頭の中には、あの夜に見た少女の姿が何度も浮かんでは消えていた。
--ショーツ一枚で、堂々と夜道を歩く少女。
--「恥ずかしいするのが、好きなんです」と、真顔で言ったあの表情。
自分とはまるで違う生き物のようだった。でも、強く印象に残っているのは、その違和感ではない。
**「あの子には“何か”があった。私は、それが何なのかすら分からない」**
咲は立ち上がり、クローゼットの前に立つ。中を開け、無意識にパジャマのズボンを脱いだ。
そしてTシャツを脱ぎ、ショーツ一枚になった。
その姿で鏡の前に立つ。
白く、のっぺりとした肌。起伏の少ない体型。
見慣れているはずなのに、裸になっただけで、**なぜか自分が“他人”のように見えた。**
呼吸が浅くなる。けれど、心のどこかが沸き立っている。
「……出るだけ。玄関の前まで行って、ドアを開けて、すぐ戻る。
それだけでいい」
自分に言い聞かせるように呟いた。
咲は静かに廊下を歩いた。裸足の足がフローリングを踏む音がやけに大きく響いた。
玄関の前で立ち止まる。
手が震えている。玄関のドアノブに触れる指先が汗ばんでいた。
**--開けたら、もう後戻りはできない。
でも、開けなければ、私は一生このまま。**
咲はゆっくりと鍵を外した。
そして、ドアを開けた。
冷たい空気が一気に押し寄せてきた。肌がピリリと反応する。
外は静まり返っている。街灯がひとつ、白くぼんやりと照らしている。
誰もいない。見ている人はいない。けれど--
**「この空気に触れているだけで、“見られている気がする”」**
咲は一歩、外に出た。
アパートの共用廊下。照明の下、肌がむきだしになる感覚。
足が動かない。
ほんの数秒だった。だが、時間が止まったように感じた。
そして、咲は思わず、**「怖い!」**と声にならない声をあげ、踵を返してドアを閉めた。
閉まる音が、世界との接点を断ち切ったように響いた。
咲はその場にしゃがみ込み、息を整える。
胸がドキドキしている。冷や汗が額を伝っていた。
「……恥ずかしかった。怖かった。
やっぱり私には無理。二度とやらない……」
呟いた声は、自分に対する戒めのようでいて、どこか空虚だった。
咲はその夜、シャワーも浴びずに布団に潜り込んだ。
なのに、体はずっと火照っていた。
**あの一瞬、私は確かに“生きている”と感じてしまった。
それが、何より厄介だった。**
**第2日目:再燃**
「二度とやらない」--そう心に決めたはずだった。
けれど、その誓いは、たった数日で揺らぎ始めていた。
会社でパソコンの画面を見つめながら、上司の話を聞き流しながら、エレベーターを待ちながら、咲の心には**あの夜の記憶がちらちらとよみがえっていた**。
--玄関の外に出たあの瞬間。
--冷たい空気が肌をなぞったあの感触。
--「誰かに見られているかもしれない」と思ったあの緊張。
--そして、逃げ帰ったときの、強烈な自己否定と興奮の入り混じった感情。
「私、どうして逃げたんだろう」
咲は自問する。
怖かった。でも、恥ずかしかった。でも--
それ以上に、「それをしている自分」が確かに存在していた。
今の咲は、日常の中で**「私はここにいる」と感じられる瞬間がほとんどない**。誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ静かに、そして空洞のように時間を消費しているだけだった。
なのに、あの夜は違った。
全身で世界と接していた。目に映るすべてが鋭く、皮膚が感じ取るすべてが生々しかった。
--もう一度だけ。
今度こそ、少しだけ前に進んでみたい。
そう思ったとき、咲の中ではすでに“やる”ことが決まっていた。
***
夜、0時30分。
いつもと同じようにパジャマを脱ぎ、ショーツ一枚になった。
全身を鏡で見ると、前より少しだけ、裸の自分を見慣れてきた気がした。
前回よりもずっと落ち着いている。
「今度は共用廊下を出て、階段を降りてみよう」--そう小さく目標を決めた。
玄関のドアを開ける。空気の冷たさに肌が引き締まる。
だが、前回のような震えはなかった。
一歩、廊下に出る。
二歩、三歩……階段へと歩き出す。
足音が響く。誰もいないのに、誰かがどこかで見ている気がする。
そう思うたび、心臓が跳ね上がる。
でも咲は、**逃げなかった**。
手すりをそっと握りながら、階段を下りた。裸足がコンクリートの冷たさを吸い取る。
そして--路地に出る少し手前で、足が止まった。
そこから先は、街灯の光が届く場所。
あの少女が歩いていたルートだ。
咲は一歩前に出ようとして、思わず引き返した。
**「やっぱり、まだ怖い……」**
踵を返して、駆け足で階段を上り、息を切らしながら部屋に戻った。
ドアを閉めて背中を預けたとき、安心と同時に、胸の奥に小さな悔しさが残った。
「……でも、今日は前より遠くに行けた」
咲は小さく息を吐いた。
鏡に映る自分は、顔をほんの少しだけ紅潮させていた。
肌が火照っている。心も、どこか浮き立っていた。
「私にだって、できるかもしれない」
咲は、初めて小さく、心の中で呟いた。
***
咲はまだ、この夜の意味を理解していなかった。
ただ少しずつ、彼女の中に「もうひとつの自分」が芽を出し始めていた。
**第3日目:到達**
咲は、昼間の自分が嘘のように思えた。
会社では書類を処理し、無表情で「了解しました」と頷き、いつも通りの「何も起きない自分」を演じていたはずだった。
けれど心の中ではずっと、**「次は、どこまで行けるだろう」**という思考が渦巻いていた。
もはやそれは「露出したい」という願望ではなかった。
**「確認したい」--自分が本当にそこまで行けるのか、自分が“自分で決めたこと”をやりきれる人間なのか、それを。**
夜になった。
部屋の照明を落とし、またショーツ一枚になる。
肌がすぐに夜の冷気に反応して、鳥肌が立った。
咲は鏡を一瞥し、何も言わずに玄関へ向かった。
もう、戸惑いはほとんどない。鍵を外し、ドアを開ける動作も滑らかだった。
共用廊下を歩き、階段を降りる。
静寂のなかで、裸足の足音がかすかに響く。だが、その音も咲にとってはもう怖くなかった。
アパートの敷地を抜け、小さな通りに出る。
コンクリートの舗装。等間隔に立つ街灯。
その光と光の間に生まれる“影の帯”を、咲はゆっくりと歩いた。
--そこが、あの夜、少女と出会った場所。
咲は立ち止まり、周囲を見渡す。
誰もいない。車の音も遠く、空気は冷たく澄んでいた。
ただ、どこかで誰かが息を潜めて見ているような錯覚がある。
咲は肩をすくめる。羞恥がふっと湧いてきたが、不快ではなかった。
むしろ、それが“現実の輪郭”を与えてくれる気がした。
**「ここまで来た。私も、あの子と同じ場所に立った」**
咲の胸の奥で、何かが音を立てて崩れるような感覚があった。
それは恐怖の崩壊ではなかった。自己否定の崩壊でもない。
**“私は生きている”という、強烈な実感が、内側からあふれてきた。**
--そのときだった。
建物の影に、一瞬、人影が見えた。
誰かがいた。咲は全身の血が逆流するような衝撃を受けた。
**見られた--?**
次の瞬間、咲は反射的に走り出していた。
裸足の足がアスファルトを打つ音が、夜に響く。
息が切れる。心臓が爆発しそうに鳴っている。
アパートの階段を駆け上がり、玄関を開けて飛び込むように中へ入り、鍵をかけて、壁にもたれかかった。
部屋の中は、いつもより暗く、静かだった。
咲はしばらく呼吸を整え、立ち尽くしていた。
**「……もう、やめよう。
怖い。やっぱり、私には無理だ。
もう絶対にやらない」**
それは、自分を守るための誓いだった。
だが、咲の胸の内にはもう、それが**“本心ではない”**ことが、はっきりと分かっていた。
もう一度、あの場所に立ちたい。
もう一度、世界とつながりたい。
その衝動は、彼女の中で確かに目を覚ましていた。
**第4日目:目覚め**
「絶対に、もうやらない」
三日前、咲はそう誓ったはずだった。
けれど、誓いは静かに、内側から崩れていった。
日が経つごとに、夜の空気が恋しくなる。
鏡の前でショーツ一枚の自分を見つめる時間が長くなる。
着替えのとき、ふとカーテンを開けて、ベランダから外を見下ろしてしまう。
--何がしたいの?
自分に問いかけて、答えが出ない。
ただ、“あの感じ”がもう一度欲しいのだ。
あの夜、空気にさらされた肌。
光と影に切り取られた輪郭。
世界の中に、自分が“むきだし”で存在しているというあの感覚。
咲は、また出てしまった。
もう4度目だった。
いつものようにショーツ一枚になり、玄関の鍵を静かに外し、夜の中に溶け込む。
今夜は風が少し強い。肌が撫でられるたびに、体がわずかに震える。
それでも、咲は歩く。止まらない。
アパートの階段を下り、路地を抜け、あの少女と出会った場所を通り過ぎる。
今夜は、さらにその先へ。
商店街の入り口にある、自販機の前まで来たとき、咲は立ち止まった。
誰もいない。けれど、通りは完全に“人が通れる空間”だ。
何かを買いに来た誰かが、角を曲がってくるかもしれない。
そう思うと、胸が高鳴った。
怖い。けれど--
**「バレたくない。でも、“見つかってしまうかもしれない”という状況に、自分が身を置いていることが、どうしようもなく気持ちいい」**
咲はゆっくりと深呼吸をした。
この感覚。全身が敏感になっている。
風の音、遠くの車のエンジン、道に転がる小石の影、すべてが肌を刺すように鋭く感じられる。
そして、気づいてしまった。
**--あの子も、この感覚を知っていたんだ。**
ただ裸でいたいのではない。
誰かに見てほしいわけでもない。
**“恥ずかしさ”の中に潜む、この高揚と解放を、味わっていたのだ。**
咲はそのとき、はじめて少女の「恥ずかしいするのが好きなんです」という言葉の意味を、実感として理解した。
恥ずかしい。それは、拒絶と快感のぎりぎりの境界線。
ふだん抑えつけていた自分が、そこでは自由になれる。
**むきだしの自己が、世界と“つながる”感覚。**
咲は少しだけ笑った。
「私……、わかってきたのかもしれない」
自販機の明かりが、肌をぼんやり照らしていた。
このまま、もう少しだけ歩いてみようか。
そんな思いがよぎった瞬間だった。
--ふと、曲がり角の先で、誰かの足音がした。
咲は反射的に身を翻し、暗がりの中へ駆け込んだ。
息を殺し、壁に背中をつける。心臓の鼓動が耳に響く。
誰かが通り過ぎていく。自転車を押している音がする。
咲はその姿が見えなくなるまでじっと動かず、夜の中に溶け込んでいた。
ようやく足音が遠ざかり、咲はその場にしゃがみ込んだ。
「……怖かった。でも……もう、やめられない」
彼女の中で、確かな目覚めがあった。
この行為は、罪ではない。病気でもない。
**これは、誰にも言えない形で、自分の“命”を感じる方法なのだ。**
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その夜、咲は自分でも理由の分からない衝動に突き動かされていた。
部屋の中は静まり返っている。時計は午前1時を指していた。エアコンの風が壁にかすかに当たり、ささやくような音を立てている。
咲はベッドの端に座ったまま、両手で膝を抱えていた。
頭の中には、あの夜に見た少女の姿が何度も浮かんでは消えていた。
--ショーツ一枚で、堂々と夜道を歩く少女。
--「恥ずかしいするのが、好きなんです」と、真顔で言ったあの表情。
自分とはまるで違う生き物のようだった。でも、強く印象に残っているのは、その違和感ではない。
**「あの子には“何か”があった。私は、それが何なのかすら分からない」**
咲は立ち上がり、クローゼットの前に立つ。中を開け、無意識にパジャマのズボンを脱いだ。
そしてTシャツを脱ぎ、ショーツ一枚になった。
その姿で鏡の前に立つ。
白く、のっぺりとした肌。起伏の少ない体型。
見慣れているはずなのに、裸になっただけで、**なぜか自分が“他人”のように見えた。**
呼吸が浅くなる。けれど、心のどこかが沸き立っている。
「……出るだけ。玄関の前まで行って、ドアを開けて、すぐ戻る。
それだけでいい」
自分に言い聞かせるように呟いた。
咲は静かに廊下を歩いた。裸足の足がフローリングを踏む音がやけに大きく響いた。
玄関の前で立ち止まる。
手が震えている。玄関のドアノブに触れる指先が汗ばんでいた。
**--開けたら、もう後戻りはできない。
でも、開けなければ、私は一生このまま。**
咲はゆっくりと鍵を外した。
そして、ドアを開けた。
冷たい空気が一気に押し寄せてきた。肌がピリリと反応する。
外は静まり返っている。街灯がひとつ、白くぼんやりと照らしている。
誰もいない。見ている人はいない。けれど--
**「この空気に触れているだけで、“見られている気がする”」**
咲は一歩、外に出た。
アパートの共用廊下。照明の下、肌がむきだしになる感覚。
足が動かない。
ほんの数秒だった。だが、時間が止まったように感じた。
そして、咲は思わず、**「怖い!」**と声にならない声をあげ、踵を返してドアを閉めた。
閉まる音が、世界との接点を断ち切ったように響いた。
咲はその場にしゃがみ込み、息を整える。
胸がドキドキしている。冷や汗が額を伝っていた。
「……恥ずかしかった。怖かった。
やっぱり私には無理。二度とやらない……」
呟いた声は、自分に対する戒めのようでいて、どこか空虚だった。
咲はその夜、シャワーも浴びずに布団に潜り込んだ。
なのに、体はずっと火照っていた。
**あの一瞬、私は確かに“生きている”と感じてしまった。
それが、何より厄介だった。**
**第2日目:再燃**
「二度とやらない」--そう心に決めたはずだった。
けれど、その誓いは、たった数日で揺らぎ始めていた。
会社でパソコンの画面を見つめながら、上司の話を聞き流しながら、エレベーターを待ちながら、咲の心には**あの夜の記憶がちらちらとよみがえっていた**。
--玄関の外に出たあの瞬間。
--冷たい空気が肌をなぞったあの感触。
--「誰かに見られているかもしれない」と思ったあの緊張。
--そして、逃げ帰ったときの、強烈な自己否定と興奮の入り混じった感情。
「私、どうして逃げたんだろう」
咲は自問する。
怖かった。でも、恥ずかしかった。でも--
それ以上に、「それをしている自分」が確かに存在していた。
今の咲は、日常の中で**「私はここにいる」と感じられる瞬間がほとんどない**。誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ静かに、そして空洞のように時間を消費しているだけだった。
なのに、あの夜は違った。
全身で世界と接していた。目に映るすべてが鋭く、皮膚が感じ取るすべてが生々しかった。
--もう一度だけ。
今度こそ、少しだけ前に進んでみたい。
そう思ったとき、咲の中ではすでに“やる”ことが決まっていた。
***
夜、0時30分。
いつもと同じようにパジャマを脱ぎ、ショーツ一枚になった。
全身を鏡で見ると、前より少しだけ、裸の自分を見慣れてきた気がした。
前回よりもずっと落ち着いている。
「今度は共用廊下を出て、階段を降りてみよう」--そう小さく目標を決めた。
玄関のドアを開ける。空気の冷たさに肌が引き締まる。
だが、前回のような震えはなかった。
一歩、廊下に出る。
二歩、三歩……階段へと歩き出す。
足音が響く。誰もいないのに、誰かがどこかで見ている気がする。
そう思うたび、心臓が跳ね上がる。
でも咲は、**逃げなかった**。
手すりをそっと握りながら、階段を下りた。裸足がコンクリートの冷たさを吸い取る。
そして--路地に出る少し手前で、足が止まった。
そこから先は、街灯の光が届く場所。
あの少女が歩いていたルートだ。
咲は一歩前に出ようとして、思わず引き返した。
**「やっぱり、まだ怖い……」**
踵を返して、駆け足で階段を上り、息を切らしながら部屋に戻った。
ドアを閉めて背中を預けたとき、安心と同時に、胸の奥に小さな悔しさが残った。
「……でも、今日は前より遠くに行けた」
咲は小さく息を吐いた。
鏡に映る自分は、顔をほんの少しだけ紅潮させていた。
肌が火照っている。心も、どこか浮き立っていた。
「私にだって、できるかもしれない」
咲は、初めて小さく、心の中で呟いた。
***
咲はまだ、この夜の意味を理解していなかった。
ただ少しずつ、彼女の中に「もうひとつの自分」が芽を出し始めていた。
**第3日目:到達**
咲は、昼間の自分が嘘のように思えた。
会社では書類を処理し、無表情で「了解しました」と頷き、いつも通りの「何も起きない自分」を演じていたはずだった。
けれど心の中ではずっと、**「次は、どこまで行けるだろう」**という思考が渦巻いていた。
もはやそれは「露出したい」という願望ではなかった。
**「確認したい」--自分が本当にそこまで行けるのか、自分が“自分で決めたこと”をやりきれる人間なのか、それを。**
夜になった。
部屋の照明を落とし、またショーツ一枚になる。
肌がすぐに夜の冷気に反応して、鳥肌が立った。
咲は鏡を一瞥し、何も言わずに玄関へ向かった。
もう、戸惑いはほとんどない。鍵を外し、ドアを開ける動作も滑らかだった。
共用廊下を歩き、階段を降りる。
静寂のなかで、裸足の足音がかすかに響く。だが、その音も咲にとってはもう怖くなかった。
アパートの敷地を抜け、小さな通りに出る。
コンクリートの舗装。等間隔に立つ街灯。
その光と光の間に生まれる“影の帯”を、咲はゆっくりと歩いた。
--そこが、あの夜、少女と出会った場所。
咲は立ち止まり、周囲を見渡す。
誰もいない。車の音も遠く、空気は冷たく澄んでいた。
ただ、どこかで誰かが息を潜めて見ているような錯覚がある。
咲は肩をすくめる。羞恥がふっと湧いてきたが、不快ではなかった。
むしろ、それが“現実の輪郭”を与えてくれる気がした。
**「ここまで来た。私も、あの子と同じ場所に立った」**
咲の胸の奥で、何かが音を立てて崩れるような感覚があった。
それは恐怖の崩壊ではなかった。自己否定の崩壊でもない。
**“私は生きている”という、強烈な実感が、内側からあふれてきた。**
--そのときだった。
建物の影に、一瞬、人影が見えた。
誰かがいた。咲は全身の血が逆流するような衝撃を受けた。
**見られた--?**
次の瞬間、咲は反射的に走り出していた。
裸足の足がアスファルトを打つ音が、夜に響く。
息が切れる。心臓が爆発しそうに鳴っている。
アパートの階段を駆け上がり、玄関を開けて飛び込むように中へ入り、鍵をかけて、壁にもたれかかった。
部屋の中は、いつもより暗く、静かだった。
咲はしばらく呼吸を整え、立ち尽くしていた。
**「……もう、やめよう。
怖い。やっぱり、私には無理だ。
もう絶対にやらない」**
それは、自分を守るための誓いだった。
だが、咲の胸の内にはもう、それが**“本心ではない”**ことが、はっきりと分かっていた。
もう一度、あの場所に立ちたい。
もう一度、世界とつながりたい。
その衝動は、彼女の中で確かに目を覚ましていた。
**第4日目:目覚め**
「絶対に、もうやらない」
三日前、咲はそう誓ったはずだった。
けれど、誓いは静かに、内側から崩れていった。
日が経つごとに、夜の空気が恋しくなる。
鏡の前でショーツ一枚の自分を見つめる時間が長くなる。
着替えのとき、ふとカーテンを開けて、ベランダから外を見下ろしてしまう。
--何がしたいの?
自分に問いかけて、答えが出ない。
ただ、“あの感じ”がもう一度欲しいのだ。
あの夜、空気にさらされた肌。
光と影に切り取られた輪郭。
世界の中に、自分が“むきだし”で存在しているというあの感覚。
咲は、また出てしまった。
もう4度目だった。
いつものようにショーツ一枚になり、玄関の鍵を静かに外し、夜の中に溶け込む。
今夜は風が少し強い。肌が撫でられるたびに、体がわずかに震える。
それでも、咲は歩く。止まらない。
アパートの階段を下り、路地を抜け、あの少女と出会った場所を通り過ぎる。
今夜は、さらにその先へ。
商店街の入り口にある、自販機の前まで来たとき、咲は立ち止まった。
誰もいない。けれど、通りは完全に“人が通れる空間”だ。
何かを買いに来た誰かが、角を曲がってくるかもしれない。
そう思うと、胸が高鳴った。
怖い。けれど--
**「バレたくない。でも、“見つかってしまうかもしれない”という状況に、自分が身を置いていることが、どうしようもなく気持ちいい」**
咲はゆっくりと深呼吸をした。
この感覚。全身が敏感になっている。
風の音、遠くの車のエンジン、道に転がる小石の影、すべてが肌を刺すように鋭く感じられる。
そして、気づいてしまった。
**--あの子も、この感覚を知っていたんだ。**
ただ裸でいたいのではない。
誰かに見てほしいわけでもない。
**“恥ずかしさ”の中に潜む、この高揚と解放を、味わっていたのだ。**
咲はそのとき、はじめて少女の「恥ずかしいするのが好きなんです」という言葉の意味を、実感として理解した。
恥ずかしい。それは、拒絶と快感のぎりぎりの境界線。
ふだん抑えつけていた自分が、そこでは自由になれる。
**むきだしの自己が、世界と“つながる”感覚。**
咲は少しだけ笑った。
「私……、わかってきたのかもしれない」
自販機の明かりが、肌をぼんやり照らしていた。
このまま、もう少しだけ歩いてみようか。
そんな思いがよぎった瞬間だった。
--ふと、曲がり角の先で、誰かの足音がした。
咲は反射的に身を翻し、暗がりの中へ駆け込んだ。
息を殺し、壁に背中をつける。心臓の鼓動が耳に響く。
誰かが通り過ぎていく。自転車を押している音がする。
咲はその姿が見えなくなるまでじっと動かず、夜の中に溶け込んでいた。
ようやく足音が遠ざかり、咲はその場にしゃがみ込んだ。
「……怖かった。でも……もう、やめられない」
彼女の中で、確かな目覚めがあった。
この行為は、罪ではない。病気でもない。
**これは、誰にも言えない形で、自分の“命”を感じる方法なのだ。**