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fld_nor.gif 『禁断の館』
投稿日 : 2025/11/22(Sat) 17:27
投稿者 ベンジー
参照先 http://www.benjee.org
 雨の匂いがした。
 山奥に佇む古い屋敷は、灰色の霧に包まれていた。門を押し開けると、重たい鉄の音が響き、湿った空気が肌を撫でた。
 祖父の死をきっかけに、私はこの屋敷を受け継ぐことになった。代々「黒羽家」と呼ばれる家系に伝わる古い館。しかし祖父は遺言にこう書き残していた。
 ――決して、地下室の扉を開けてはならぬ。

 屋敷の中は、時が止まったように静まり返っていた。埃の匂い。壁にかけられた肖像画たちはどれもこちらを見つめているようで、どこか落ち着かなかった。
 私を出迎えたのは、一人の女性だった。
 彼女の名はアリス。祖父の代からこの屋敷に仕えてきた使用人だという。栗色の髪をきっちりまとめ、古風な黒いメイド服を着ていた。整った顔立ちに似合わず、どこか影のある瞳をしている。

「ようこそ、お帰りなさいませ。当主様。お待ちしておりました」

 その声は澄んでいて、耳の奥に残るようだった。
 だが、彼女の笑みの奥に、説明できない悲しみのようなものが見えた。

 その夜。私は書斎で祖父の残した日記を見つけた。
 そこには意味深な言葉が並んでいた。

> 『呪いは血を求める。
> 封印を守る者は、愛を知らぬまま朽ちねばならぬ。
> アリスはその最後の番人だ。』

 ――アリス?
 私は眉をひそめた。彼女は祖父の代から仕えているはずだ。だが、祖父が亡くなったのは九十を過ぎてから。アリスの外見はどう見ても二十代にしか見えない。
 ありえない。
 だが、翌日から屋敷に漂う奇妙な気配が、私のそんな理屈を打ち消していった。

 夜ごと、屋敷のどこかでかすかな歌声が聞こえる。
 それは誰かを慰めるようでもあり、泣いているようでもあった。
 ある夜、私はその声を追って廊下を歩いた。声は地下へと続く階段の先から聞こえてくる。
 そこに――封じられたはずの扉があった。

「……開けてはなりません」

 背後でアリスの声がした。
 彼女は息を切らし、まるで何かを恐れているようだった。
「この扉の向こうには、触れてはならないものがございます。当主様、どうかお戻りください」

「なぜだ? 祖父は何を隠していた?」

「……いずれ知ることになります。ですが、今は――」
 その時、屋敷が低く唸った。まるで生きているかのように壁が震え、扉の向こうから冷たい風が吹きつけた。
 鍵が勝手に外れ、扉が軋んで開く。
 私は吸い寄せられるように、足を踏み入れていた。

 地下室の空気は凍りつくように冷たい。中央には古びた台座があり、その上に奇妙な石板が置かれている。
 アリスの悲鳴が響いた。
「いけません!」
 だが、私はすでに石板に触れてしまっていた。

 瞬間、目の前が白く弾けた。
 アリスの姿が揺らぎ、衣装がまるで光に溶けるように変わっていく。黒いドレスは裂け、淡い光を放つ布が彼女を包んだ。
 彼女の目が潤み、苦しげに口を開いた。

「……いけません……このような場所でこの格好を……ああ……抑えきれなくなる……!」

 その声は悲鳴でもあり、懇願でもあった。
 彼女の身体から光と闇が同時に溢れ出し、空気が歪む。壁に刻まれた紋様が淡く輝き、屋敷全体が震えていた。
 私は息を呑んだ。
 アリスの背に、黒い羽のような影が伸びている。
 彼女は両手で顔を覆い、涙を流していた。

「……ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりはなかったのに……」

「アリス、君は――いったい何者なんだ?」

 彼女はゆっくりと顔を上げた。
 瞳の中には、夜空のような深い闇が揺れている。

「私は……この屋敷の“封印”そのものです。
 百年前、黒羽家が禁忌の儀を行ったとき、私は犠牲としてこの屋敷に縛られました。以来、当主の血を守り、呪いを抑え続けてきた。
 けれど……あなたがこの扉を開けてしまった今、封印は崩れ始めています」

 彼女の声が震えた。
「私の内にある力は、人の心を狂わせる。私自身も、もう抑えられないのです……」

 その言葉とともに、アリスは私に歩み寄る。
 彼女の指先が触れた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。恐怖ではなかった。
 それは、懐かしさに似た感情――。

「……どうして、そんな顔をするの?」
「あなたを助けたいんだ」
「助ける? 私を?」
 アリスは微笑んだ。その笑みはあまりにも儚く、美しかった。
「私は人ではありません。助けられる資格など、もうないのです。
 でも……あなたに触れて、ようやく“人”の心が分かりました。
 愛するということが、どういう痛みなのかも。」

 屋敷が大きく軋んだ。天井から砂が落ちる。
 封印が完全に解けようとしていた。

「アリス! この呪いを解く方法はないのか!?」
「あります……ただ一つだけ。
 私を、消してください。そうすれば、この屋敷も、あなたも自由になれます」

 彼女の言葉に、心臓が掴まれたように痛んだ。
「そんなこと……できるわけがない!」
「お願いです。これは私の願い。
 あなたが来てくれたのは、この瞬間のためだったのです。
 どうか……終わらせてください。
 もう、抑えきれない……」

 アリスの体が崩れ、光の粒が宙を舞った。
 私は震える手で石板を掴む。それが彼女を縛る“鍵”だと分かっていた。
 涙が頬を伝う。
「ありがとう、アリス……」
 石板を砕いた瞬間、光が爆発した。

 屋敷全体が眩い光に包まれる。壁も、天井も、音も、すべてが消えた。
 ただ、アリスの声だけが、耳に残った。

> 「……いけません……このような場所で……この格好で……ああ……抑えきれなくなる……」

 その言葉は、最初に彼女が発した警告ではなかった。
 最後の別れの言葉――
 “あなたを愛してしまった私を、どうか忘れて”という祈りだったのだ。

 光が収まると、屋敷は静寂に包まれていた。
 地下室の台座も、アリスの姿も、すべて跡形もなく消えている。
 ただ一枚の肖像画が壁に残されていた。そこには、柔らかく微笑むアリスの姿。
 その手には、赤い薔薇が一輪――
 まるで、永遠に枯れない想いを抱くように。

 外に出ると、雨は止んでいた。
 青い空の下で、私は静かに呟いた。
「ありがとう、アリス。君は、もう自由だ」

 風が吹いた。
 その中に、彼女の声が微かに混じっていた気がした。
 ――“おかえりなさいませ。当主様”――
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