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エピローグ

 愛美は自分の部屋のパソコンで管理人へのメールを書いていた。
 今日もまた上機嫌なのは朋美がまだこの部屋にいるからだ。体はすっかり良くなったが、マンションに戻るのを皆が反対した。藍子とはいずれ仲直りするにしても、君島が何を企むかわからない。持田ビルには戻らない方が無難である。
 細川の実家に戻ったのでは通学にも支障が出るし、義母や親戚たちにも理由を説明しなければならない。もちろん朋美もそんなことは望まない。
 と言うわけで、当分は愛美の家から通うこととなった。
「ヤッ君にまた恨まれますね」
 この一週間、愛美は朋美に掛かりきりだった。朝のランニングと登校は一緒だったが、靖史にしてみれば、それ以外のフリーな時間を朋美に取られた形になっていた。朋美が芳樹のアパートに泊まった昨日の晩が唯一のチャンスだったのだが、靖史はそれを知るべくもなく、愛美も家に帰ると爆睡していた。
「たまにはデートして来たら?」
 気を遣う朋美に、
「いいんです。ヤッ君は私の下僕ですから」
 そんなことを言いながら、愛美はキーボードを叩いていく。

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管理人さん、こんにちは。
愛美です。

今日のご報告はご主人様のことです。
先日頂いた「地下鉄キャッチボール」を実行して来ちゃったんです。
正直なところ、私には絶対にできないと思っていました。
でも、ご主人様ならできると管理人さんは思ったのですよね。
私もそう思いました。

でも、さすがのご主人様も最初は渋っていたんですよ。
私にお手本を見せるとか言っておきながら……

頭にグーが落ちてきました。

ご主人様は今も後ろにいるんです。
自分のことですから、どんな報告を書くのか見たいのでしょう。
余計なことは書くなって言ってます。

でも、本当にハダカで地下鉄に乗っちゃったんですよ。
下見もしたし、打合せもばっちりだったのですが、
それでも電車が来た時にはご主人様の手を掴んでしまいました。
その手をやさしく振り払って電車に乗り、ご主人様は全裸になりました。
その瞬間がどれだけ恥ずかしかったことか。
でも後で聞いたら、電車が動き出してからの方が何倍も切なかったって言ってます。
自分はひとりなんだ、何も着るモノが無いんだって思い知らされたそうです。

実行する前は「次は愛美ちゃんの番だからね」なんて言っていたのですが、
終ってからは口にしません。
私にはまだ無理だと思っているのですよね。

「やってみたいの?」って聞かれてしまいました。
正直なところ、YESの部分はあります。
でも、怖い方が大きいです。
それでも管理人さんからご命令が出れば、やってしまうと思います。

ご主人様は「あんなに興奮するとは思わなかった」と言っています。
自分を露出っこだとは思っていなかったようです。
これからはどうするつもりなのでしょうね。

愛美
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 愛美はキーボードから手を離し、朋美を見上げた。
「いいんじゃない」
 同意を得て送信ボタンをクリックする。どんな返信が戻ってくるのか。場合によっては、今度は愛美が地下鉄でキャッチボールされることになる。メールの送信完了を知らせるメッセージが表示された頃には、もう下腹部を疼かせていた。
「ねえ、朋美さん。管理人さんってどんな人だと思いますか?」
「さあ、誘拐犯と渡り合うくらいだから度胸はあるみたいね。でも、愛美ちゃんとはいいとこメル友でしょ。身内でもないのに普通そこまでするかなあ」
 愛美は画面の上でマウスカーソルをクルクルと動かしていたが、
「実際にしたんですから身内なのかもしれませんね」
 冗談半分で口にしてみた。愛美にとって身内と呼べるのは君枝と芳樹だけだった。母親とは一緒に暮らしているし、兄とも会おうと思えばいつでも会える。父親を求める気持ちはあっても、孤独だと思ったことはなかった。
「朋美さん、お願いがあります」
「何かしら? 今なら大抵のことは聞いてあげるわよ」
 SMクラブでのことで朋美は罪悪感を持っているのだと思う。自分のせいで愛美にイヤな思いをさせてしまったと。その後も面倒をかけたままになっている。
「朋美さんのケータイ、少しだけ貸して頂けませんか?」
「いいけど……どうするの?」
「私、管理人さんとお話がしたいんです」
 朋美は迷っているように見えた。気持ちはわからないでもない。愛美も迷っていた。「貸して頂けませんか?」という質問は「掛けてもいいでしょうか?」という言葉に置き換えることもできた。
「いいわ。でも、私のいるところで掛けるのよ」
 朋美はポーチからケータイを取り出すと画面を開いて愛美に手渡した。
「ありがとうございます」
 愛美は手元を見つめる。「無題」と書かれたリターンメールのひとつが表示してあった。短いメールだ。その中程に電話番号が記されている。管理人が誘拐犯たちに掛けさせようとしたケータイ番号だ。愛美はその部分を反転させて決定ボタンを押した。
 呼び出し音が三回鳴った後、電話が繋がった。
『はい、どちら様ですか?』
 やさしそうな声だった。中年男性のような落ち着きがある。それでいて若者の声のようにも聞こえる。愛美は朋美に目で合図した。
「あのぅ、管理人さんですか?」
 緊張で声が裏返る。
『ああ、朋美……さん、だったかな。この電話に掛けてくるとは思わなかったよ』
「ごめんなさい。愛美です。朋美さんのケータイを借りて電話しました」
『……愛美』
「はい、この間はありがとうございます。ホントに助かりました。私も、朋美さんも……いえ、ご主人様もピンチだったんです。メールでもしましたけど、どうしても直接お礼が言いたくて……ご迷惑でしたか?」
 愛美は一息でしゃべった。
『あっ、いや、そんなことは……』
「結局、お兄ちゃんが来てくれたんですけど、管理人さんの電話であいつらヒビってて、お兄ちゃんを見た途端に逃げちゃいました。怖そうな人だったんですけどね」
 返事がない。やはり迷惑だったのだろうか。
「管理人さん……?」
『いや、すまない。ところで愛美はいくつになったのかな?』
「メールに書いた通り十四歳ですけど……」
『そうだったね。私のところには大勢の女の子からメールが来るのでね。わからなくなってしまうんだよ。そうか。十四歳、中学生だったね』
「なんか、お父さんとお話しているみたいです」
 この電話を掛ける前から、愛美はそんな気がしていた。ハダカで檻に入れられている時も母の君枝や兄の芳樹を頼りにするのと同じくらい管理人を頼っていた。それは恐らく、まだ見ぬ父に頼るような感覚だったのだと思う。
『それは光栄だね。確かに私には愛美くらいの子供がいてもおかしくないが』
「お子さん、いらっしゃらないんですか」
『ああ、一応ね』
「一応って……わかった。公にはいないけど隠し子がいるんだ」
『ははっ、まあ、そんなところだ』
「ダメですよ。奥さん泣かせちゃ」
『ああ、覚えておくよ。愛美もお母さんを大切にするんだよ』
「はい、わかりました」
『いい子だ。それじゃ切るね』
「えっ、もう切っちゃうんですか?」
『あまり長く話してしまうと命令とか出しづらくなってしまうんだ。次からはメールにしておくれ。朋美さんにもよろしく』
「そういうものなんですか。わかりました。管理人さんが言うならそうします。さようなら」
 電話が切れた。短い時間だったが、随分といろいろな話をした気がした。途中ではしゃいで見せたりもしたが、ケータイを握る手には汗が滲んでいた。
「朋美さん……」
 画面にはまだ掛けたばかりのケータイ番号が表示されていた。管理人と話をすることに何を期待していたのか、愛美にもわかっていない。ただ目頭が熱くなっていた。
「管理人さん、何だって?」
 朋美が愛美の肩に手を置いた。
「愛美はいくつだとか、お母さんを大切にしろとか、ただのオヤジですよね。そうだ。朋美さんによろしくとも言ってました」
 愛美は目尻を押さえて朋美を見上げる。
「そうなんだ」
「私の他にも大勢の女の子からメールを貰っているんですって。でも、電話で話をしたのは私だけですよね」
 ケータイに目を戻した時、着信音が鳴った。愛美は急いでそれを朋美に返す。
 画面には「芳樹」と表示されていた。
(おわり)



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