第9話 地下鉄はハダカで
愛美が病室を訪れたのはお昼過ぎになっていた。朋美が入院した翌日のことだ。もっと早く来たかったのだが、愛美にも寝る時間は必要だった。朋美は喜んでくれたが、見るからに元気がない。夕べはよく眠れなかったのだろうか。
「愛美ちゃん、ひとり?」
「はい。お母さんは、都会は苦手だって……」
返事をしながら愛美は思った。朋美は兄の芳樹に来て欲しいのだ。夕べは遅くまで一緒にいた芳樹だったが、宗一郎が来て名乗ると逃げ出すように帰っていった。今日はまだアパートで寝ているのかもしれない。
(もう、カノジョが入院したんだから来てあげればいいのに)
朋美はまだ、ひとりでは歩くのも困難だった。排尿は溲瓶を使い、排便は看護師の手を煩わせるしかなかった。それでも退院したいと言い出した。ひとりでいると怖い夢を見るのだと子供のようなことを言った。いつもの朋美らしくないと思う愛美だが、その一方で朋美の内面に触れた気がして嬉しかった。
「ひとりじゃ何もできないでしょ。ニ三日の辛抱なんだから」
看護師が朋美をなだめる。
「それなら家に来れば」
愛美は思いついた名案をそのまま口にした。
「そうね。それがいいわ」
二つ返事の朋美。
君枝に電話を掛けると快く承知してくれた。今から来るまで迎えに来ると言う。宗一郎にも連絡すると、同意するどころか、是非そうして欲しいと頼まれた。細川の実家に連れて行ったのでは話がややこしくなるらしい。話がどんどん進んでしまい、看護師も押し切られる形で退院の手続きをとった。
と言うわけで、朋美は今、愛美の家にいる。
愛美は上機嫌だった。
自分のベッドに朋美を寝かせ、愛美はその下の床に布団を敷いた。君枝は客間に寝てもらうつもりだったようだが、愛美は自分が面倒を看るのだとはりきっていた。
「何でも言ってくださいね。ずっと一緒にいますから」
担当の看護師から溲瓶の使い方や体の拭き方――朋美はまだお風呂に入れない――を教わって来た。傷口の特にひどい部分には軟膏を塗ったガーゼを当て六時間置きに交換した。見よう見まねでも、何とか形にはなっていたと思う。
「迷惑かけるわね。病院にいればこんな苦労かけなくて済むのに」
「いいんです。私がやりたいんですから」
「ありがとう。今夜はゆっくり眠れそうだわ」
(やっぱり……)
「安心していいですよ。何ならもっと枕を高くしましょうか」
朋美の口元が緩んだ。
パジャマと下着の替えは君枝が用意してくれた。身の回りの物と言っても、後は洗面具とケータイくらいだ。病院にいた時には本当に病人のような顔をしていた朋美だが、日が暮れる頃になると見違える程元気になった。
夕食はベッドに運んで一緒に食べた。ごちそうとは言えないが、病院食よりはずっとマシだったことだろう。
朋美の体を拭いてガーゼも取り替えた。パジャマも着替えさせた。体の表面の傷は薄くなって来たように思う。下半身の痛み止めも明日の分までしか出ていない。週の後半には学校に行けるだろうか。
「いらっしゃい。キスしてあげる」
朋美がベッドに仰向けのまま両手を伸ばした。愛美はいきなりの展開に戸惑いながらも顔を近づけていく。朋美の射程距離に入ると頭を抱きかかえられた。
女の子同士のキスは甘い。柔らかい唇も、濡れた舌も、どうしようもなく愛美の脳細胞を溶かす。舌が絡まる度に体の芯まで痺れが伝わる。病人とこんなことをして良いのか思うのだが、愛美は朋美にされるがままだ。ベッドに付いた両手がシーツを握りしめた。
「今日はここまで。体が良くなったら、いっぱいお礼してあげるね」
体を離す朋美。
「はい」
愛美は最高の笑顔で答えた。
「管理人さんにお礼のメールはしたの?」
「はい。あっ、そうだ。返信が来てるかもしれませんね」
愛美はパソコンの電源を入れた。
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管理人さん、こんにちは。
愛美です。
昨日は助けて頂いてありがとうございます。
おかげさまで無事に帰って来ることができました。
私を調教するなんて言ってたんですよ。
本当に何てお礼を言ったら良いのかわかりません。
管理人さんのおかげで私もご主人様も救われました。
こんなことを言っても信じて貰えないと思いますが、何となく予感がしていたんです。
管理人さんが助けてくれるんじゃないかと。
私が誘拐されたことは誰も知りません。
お兄ちゃんもお母さんも助けに来てはくれないんだって思いました。
もちろん管理人さんも知らないことはわかっています。
それでも管理人さんなら何とかしてくれる、そんな気がしていたんです。
だから、ご主人様のケータイに電話してくれた時、やっぱりって思いました。
管理人さんは私たちのヒーローです。
どんなに感謝してもしたりません。
本当にありがとうございました。
愛美
PS.管理人さんは私のこと、どこまでわかっているんですか。
ちょっと怖いような気もします。
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これが愛美の出したメールだ。パソコンが起動すると朋美に見せた。いや、読んで聞かせた。朋美はベッドの上でひとつずつ頷いていたが、
「愛美ちゃんらしいわね。予感がしてたんだ」
「はい。あの時はマジで管理人さんは超能力者なんだって思いました。でも、これって朋美さんが連絡したんですよね」
「えっ? ええ、そうよ」
「お母さんのところにもメールが来たって言ってたからそうなんだと思いました。でも……」
愛美は言いよどむ。
「どうしたの?」
「はい。でもちょっと意外でした。朋美さんがそんなに管理人さんのことを信頼してたんだなあって。この前の命令の時、怒っていたみたいだから」
愛美が言っているのは『地下鉄キャッチボール』のことだ。
――こんなの私にさせるつもりだったの?
朋美は確かにそう言っていた。珍しく怖い顔をしていた。愛美にはとてもできない命令でも、朋美ならやってしまうのだろうと思っていた。それを真っ向から否定しているようだった。管理人さんに命令をくださいとメールしたのは朋美だが、このことで疑問を持ったのではないかと思っていた。
「そうね。本当はメールするつもりも無かったんだけど。アドレスも知られちゃうし……」
今度は朋美が言いよどむ。これ以上は聞かない方が良いかもしれない。愛美はそう考えてパソコンのディスプレイに目を戻した。
受信トレイが太字になっているのを見つけた。
「朋美さん、返信が来てますよ」
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愛美へ
ピンチだったみたいだね。
朋美からメールを貰った時には驚いたよ。
どうしようかと思ってとにかく犯人と話しをしてみようと思ったのだが、
まず無視されると思っていた。
あの程度の脅し文句で電話してくるような小心者ならハッタリも効くと思ったんだ。
それで愛美にはヤクザの親分さんの娘になってもらった。
話をうまく合わせてくれたようだね。
愛美は頭の良い子で助かった。
まさか予想していたとは思わなかったよ。
何にしても無事で何よりだ。
イヤなことは早く忘れることだね。
管理人
PS.私は、愛美のことなら何でも知っているかも。
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愛美は管理人からメールを読んで聞かせた。あの時、ボロボロだった朋美がどれくらい覚えているかわからない。愛美も必死だった。打合せができていたわけではないのだ。誘拐犯たちの会話をヒントに管理人の思惑を推理した。管理人の意図はわからないが、管理人と連絡が取れたことで愛美が安心したところを見せようと思った。こうしてみると、本当にうまくいっていたのだと改めて思う。
「私も思うわ。愛美ちゃんが頭のいい子で良かったって」
「そんなこと……でも、最後に助けてくれたのはお兄ちゃんだし。格好良かったなあ。朋美さんも見ましたよね」
朋美の顔が曇る。「しまった」と思ったが遅かった。芳樹が顔を見せないので愛美もこの話題を避けていたのだ。口に手を当てて体を半身にする。
「大丈夫よ。気を遣ってくれなくて。芳樹のやつ、後でとっちめてやるんだから」
愛美はホッと息を吐いた。
「でも、不思議なのよねえ。『愛美ちゃんが誘拐されました』としかメールしてないのに、何であの場所がわかったのかしら?」
愛美も疑問に思っていたことだ。タイミングも良過ぎる。芳樹も『露出っこクラブ』のサイトがあることは知っているが、管理人とメールのやり取りはしていない筈だ。電話中に飛び込んで来たのは全くの偶然なのだろうか。
答えの半分は君枝が握っていた。
「これです」
愛美は自分のケータイを掲げた。かわいいデザインのキッズケータイ。普段はあまり見せようとしないのだが、先日のファーストフード店で朋美にはばれていた。
「あっ、もしかして『今どこサーチ』?」
愛美は顔が熱くなっていた。
「はい。小学校の頃、これで探されたことがあるんです。お母さんが思い出して。大体の位置をお兄ちゃんに知らせると心当たりがあるって。ほら、朋美さんが言ってたじゃないですか。非常口の外まで一緒に行ったことがあるって。それでわかったって」
子供っぽくてイヤだったケータイだが、思わぬところで役に立ってくれたというわけだ。朋美からのメールで母と兄が見せたコンビネーションだ。
朋美が黙り込んでいた。
「どうしたんですか?」
「ごめんね。ちょっと羨ましくなっちゃって。ううん、感動しちゃった」
「はい……?」
「いいなあ、愛美ちゃんは。良いお母さんとお兄さんがいて」
「朋美さんのお父さんだって素敵じゃないですか。私にはいませんから……」
「あっ、そうか。私たちって、割と似たもの同士ね」
朋美が両手を広げた。愛美は喜んで側に寄る。ベッドの脇に膝を付き、朋美の体温が感じられるギリギリの位置に頭を下ろした。その頭を朋美が撫でる。手首にはまだロープの痕が擦り傷となって残っていた。
「今夜は一緒に寝ちゃおうか」
朋美が言う。愛美の布団は床に敷いてあった。
「大丈夫なんですか?」
「平気よ。エッチはできないけど、くっついて寝ましょ」
「はい」
愛美はパソコンの電源を切り、パジャマに着替えると朋美の布団に潜り込んだ。
◇
一週間後の土曜日、終電間際の地下鉄のホームに朋美は立っていた。雨が降っているわけでもないのに、ホームの空気が湿っぽい。梅雨の時期特有の蒸し暑さが夜の空気に冷やされて水滴に戻っている感じだ。
人の姿はまばらだった。
女子高生がパーカーの裾から太ももを丸出しにした姿は、それだけでも目を惹く。隣にはポロシャツにミニスカートの愛美が寄り添っていた。期待と不安に満ちた表情は朋美以上だ。
「私より興奮してどうするの」
そんな愛美をからかいはするが、朋美も自分を落ち着かせるのに必死だった。
「だってぇ……」
「実行するのは私なのよ」
愛美の鼻の頭を指で突く。ケータイで次の電車に乗ると君枝に連絡した。後は実行あるのみだ。朋美はパーカー越しの裸身を抱きしめる。これを脱いでしまえば全裸だ。今まで芳樹と過激な露出もしてきた朋美だが、これからやろうとする行為はそれら以上だ。
「地下鉄キャッチボール」
『露出っこクラブ』の管理人から出されたものだった。
藍子に打たれた鞭の痕も今はすっかり消えていた。股間を苦しめた痛みも残ってはいない。朋美は元のきれいな体を地下鉄の車内に晒そうとしていた。
次の電車が来たら、朋美はパーカーを脱いで愛美に渡す。サンダルも脱ぎ、全裸で電車に乗る。隣の駅で待つ君枝に会うまでは何も着るものが無い。愛美が投げたボールを君枝がキャッチするというわけだ。
駅を選ぶのは大変だった。まずは乗り降りが少ないこと。この時間帯だからどこもそう変わりはなかったが、それでも複雑な乗換駅は避けるに越したことはない。地上まで近く、できるだけ近くに車を停車しておけるところが望ましい。乗る車両は車掌室から最も離れた一番前、運転席のすぐ後ろだ。それでいて停車した時に改札口の近くでなければならない。電車に乗り下りする瞬間を駅員に見つかるわけにはいかないので、駅員の立ち位置や事務室のある場所も調べた。駅と駅の間も短い方が良い。監視カメラの位置も確認した。愛美とふたりで地下鉄めぐりをしたのも、その日の日中だった。「次は愛美ちゃんの番だからね」などと話ながら歩き回るのは、それはそれで楽しかった。
一度家に戻り、君枝を入れて作戦会議。深夜になるのを待って今に至る。
今日のことは芳樹には内緒だった。愛美と君枝には「絶対に反対されるから」と言っていたが、それだけが理由でないことは朋美が一番良く知っていた。
『まもなく一番線に上り列車が参ります。白線の内側まで……』
構内放送が流れた。ふたりは暗いトンネルの奥へ視線を向ける。ヘッドライトが見えるまで後何秒もないだろう。心臓の鼓動がカウントダウンを始めた。
「本当にやるんですよね」
今さらながらに愛美が尋ねる。
「大丈夫、きっとうまくいくわ」
愛美が言うのも無理はない。この命令がメールで届いた当初は「絶対にできない」と思った。こんな無謀な命令を出す管理人を疑いもした。あのSMクラブでの事件が無かったら、朋美は今ここに立っていなかったかもしれない。
電車がホームに入って来た。金属の擦れる音が甲高く響く。朋美の前を車内の景色が流れていく。それが次第にゆっくりとなり、やがて止まった。
乗車率は二割程度だろうか。深夜にしては乗っている方かもしれない。
ドアが開いた。この駅で降りる人はいなかった。喉が渇く。心臓が爆発しそうになる。止めるなら今だ。愛美が朋美の手を握った。それをやさしく振り払うようにして朋美はサンダルを脱いだ。素足で乗車すると、電車の床は思っていたより暖かい。モーターの熱が伝わってくるからだろうか。
そうしている内にも発車のベルが鳴り出した。もう迷っている時間はない。朋美は振り向くとパーカーを肩から脱いで愛美に渡す。
文字通り生まれたままの素っ裸だ。
絶妙のタイミングで締まり出すドア。スローモーションのような動きで朋美と愛美の間を隔てていく。空間が完全に遮断された。
電車が揺れ、そして動き出した。もう愛美の胸に抱えられたパーカーを取り戻す手段はない。それもすぐに見えなくなった。朋美の手に残されたものは一区間分の切符だけだ。どうせなら何も持たずに実行したかったのだが、これがないと改札口を出られない。
朋美はドアの窓ガラスに体を向けていた。ホームの明かりが途切れ、外が真っ暗になると窓ガラスは鏡となって朋美の裸身を映し出す。
(私……本当にハダカなんだ)
周りの人は気づいているだろう。振り向くことはできないが、視線を感じずにはいられない。何人くらいに見られているのだろうか。人前露出は初めてではないが、いつも近くに芳樹がいた。コートの前を広げて裸身を晒したり、コンビニの前を全裸で駆け抜けたりするのとは訳が違う。衆人監視の中に身を置いているしかなかった。
心細さが朋美を襲う。ひとりであることが恥ずかしさを何倍にも増幅する。次の駅に着くまでの二分間、何も着るものがない空間に放置されているしかないのだ。覚悟してきたつもりでも、想像以上の羞恥が朋美を責め続ける。朋美にとっても厳しすぎる命令だった。こんなことをするんじゃなかったと後悔に苛まれる。
(早く、早く)
心の中で呪文のように繰り返す。電車は動いているのに、時間だけで止まってしまったような錯覚に囚われた。わずかな筈の時間が出口も見えない。窓から見える光景に変化が無いため余計にそう思うのだろうか。
乗客のヒソヒソ声が聞こえて来た。電車の騒音に紛れて聞き取りづらいものの、大方こんなところだろう。
「露出狂?」
「若い女の子がなんて恥知らずな」
「バッカじゃないの」
「こっち向いてもっと見せてよ」
「AVの撮影か」
誰も近寄って来る気配はない。車掌に通報されたら一巻の終わりだ。一応ここから最後部の車掌室まで行って戻って来るより早く次の駅に着くという計算を立ててはいたのだが、そんなことも当てにはならない。
(どうしよう……)
頭の中で口ずさんでしまう朋美だが、どうにもならないことは最初からわかっていた。今の自分を救うものは時間の経過でしかない。腕時計だけでも持ってくればと思ったが、今更どうにもならない。体の前で両手を合わせ、背中を丸くしているしかないのだ。
事故でもあって次の駅に着かなかったら。
ふとそんな不安が頭を過ぎる。ドアが開き歩いて避難するように言われたら。この電車が元の駅に引き返すことになったらとあり得ない想像までしてしまう。
全裸。オールヌード。素っ裸。頭の中をそれらの言葉が駆けめぐる。
朋美は羞恥の牢獄に監禁された囚人だった。乗客は看守。遠慮の無い視線で朋美を見張り、恥ずかしい想いをさせることが仕事なのだ。無数のまなざしが肌を焼く。逃げ出したくとも逃げる場所などない。
『露出っこクラブ』に投稿された記事の中には、あまりの恥ずかしさに気を失ってしまったというものがあった。いっそのことそうなってしまえばと思う朋美だが、気づいた時にどうなっているかを考えるのはさらに恐ろしい。一秒でも早く君枝の元へ。そして服を着せて貰うんだと、朋美にはそれしかなかった。
(芳樹……)
朋美はその名を口ずさむ。愛美の家に寝泊まりしていた一週間、芳樹は一度も顔を出さなかった。朋美から電話もしなかった。少しのわだかまりがより電話を掛けづらくした。愛美はかわいかった。よく世話も焼いてくれた。それでも朋美が一番側にいて欲しかったのは芳樹だった。
現実逃避も朋美がハダカで地下鉄の電車に放置されているという事実を覆すものではない。状況は一向に変わっていなかった。
(後少し。もうすぐ駅に着く筈)
そう思ってからも長かった。心臓の鼓動が電車の騒音よりも大きく聞こえるくらいなのに、そのペースはゆったりとしていた。呼吸も増えている筈なのに、回数が増えていかない。乗客の話し声もスローで聞こえる。何もかもがゆっくりと動き、朋美の羞恥を救おうとはしない。同じ場所をループしているのとさえ思われた。
気持ちが萎えそうになる頃、ようやく電車が減速を始めた。
窓の外が明るくなる。殆ど無人のホームが見えた。このタイミングになっても席を立つ乗客がいないのは幸いだった。朋美の後ろに立たれるのではないかと気が気でなかったのだ。
(もうすぐだわ)
この先に君枝が待っている筈。そこでこの羞恥地獄は終わりだ。そう思うと急に気が緩む朋美だったのだが、そこからがまた長かった。電車はどんどん減速していっているのに、いつになっても君枝の姿が見えない。降車位置は打ち合わせてあったのだから通り過ぎるわけはない。電車が止まるまで君枝が見えないのは当たり前なのだが、気持ちだけが急いていた。
(早く、早く、後ちょっとなのに)
電車の動きがもどかしい。もうここでいいから止めて欲しいとさえ思ってしまう。本当にそうなってしまったら、朋美はホームを全裸で走らなければならなくなるのだが。
いよいよブレーキが全力を出し、電車は歩く程の速さになり、そして止まった。
窓ガラスの正面には君枝の姿があった。息を吐くのもお互い様だ。ドアが開くのにまた焦らされる。君枝は手も持ったワンピースの裾を広げて待ちかまえた。
「はい、これ」
ドアが開くと同時に、君枝は朋美の頭からすっぽりと被せる。マタニティドレスのようにゆったりとしたワンピースだ。下着は無しだが、これでとりあえずは普通に見える。降車口の外にはサンダルが用意されていた。それをひっかけて改札口へと急ぐ。切符を右手で持ち、最後の関門を目指した。
呼び止められたらサンダルを脱ぎ捨てて走るつもりだった。朋美が本気で逃げたらそう易々と捕まるものではない。君枝と落ち合う場所は決めてあった。
結果はあまりにあっけなかった。
何事も無かったように自動改札を抜け、ふたりして地上への階段を駆け上がる。小走りがやがて早歩きになっていた。
地上に出ると、正面の路上に君枝の車がエンジンを掛けたままになっていた。ドアのキーはすべて開けてある。朋美が助手席に乗り込むと、君枝は車を走らせた。深夜の交通量は少ない。車はすぐに流れに乗ったが、ふたりともしばらくは無言だった。
朋美はワンピースの布地を体に押し付け、顔だけ横に向けて君枝の横顔を見つめた。
(もうハダカじゃない。ひとりでもないし、誰にも見られてないんだ)
そうは思ってみても、心臓の鼓動は当分治まりそうにない。
「ご苦労さん。どうだった?」
先に口を開いたのは君枝だった。
「は、はい。緊張しました。ものすごく恥ずかしくして、死ぬかと思いましたよ」
「そう。良かったわね」
朋美はあらためて君枝の表情を伺う。
「良かった……んですか?」
「そうよ。よくやったわね。えらいわ。管理人さんの命令通りに実行できたのでしょ」
「はい。それはそうですが……」
朋美はまだ生々しい記憶の中にいた。全裸で電車の中に立ち、乗客の視線に肌を焼かれる恥ずかしさ。たったひとりでどこにも逃げ出せない心細さ。それらが切なさの集合体となって胸を奥に降りてくる。
「朋美さん、濡れてるでしょ」
「えっ!」
君枝に言われるまで気づかなかった。
一刻も早く電車を降りたい。服を着たいと願うばかりだったというのに、朋美の体は花芯に変化をもたらしていた。そんなバカなという想いもある。芳樹と露出した時も興奮はしたが、それだけで濡れたわけではないと思っていた。芳樹が側にいるから、露出も前戯のひとつだからだと思っていた。
朋美はワンピースの裾から股間に手を入れた。
その部分は信じられない程に熱くなっていた。指先がほんの少し触れただけで秘孔の奥から大量の蜜があふれ出る。今まで押さえられていたものが堰を切ったようだ。
「あふぅ、ぅぅううううーー」
快感が脳天を貫く。つま先まで刺激が走っていく。
「そんな、ダメっ。こんなところで……」
「あらあら、朋美さんも露出っこだったのねえ。いいからイッちゃいなさい」
君枝の言葉が反芻する。
私は露出っこ。電車の中でハダカになって興奮しているの。
「イヤっ、あああっ、ああっ、イヤっ、あっ、あああああああああああーーー」
朋美は真っ白な世界に落ちていた。
気づいた時には、愛美が後ろに席に乗っていた。君枝がひとつ前の駅まで行って拾ったのだ。助手席のシートに身を乗り出して朋美の顔をのぞき込んでいた。
「あっ、気がついた」
どれくらい気を失っていたのだろう。芳樹とのセックスでも、そんなに長く気をやったままでいたことはない。カレシの母親の前で恥ずかしい声を上げ絶頂を迎える姿を晒してしまったことに、朋美は身の縮む想いだ。
「愛美ちゃん……」
一度目を合わせた朋美だが、すぐに目を背けた。誰の顔を見るのも照れくさかった。
「朋美さん、やりましたね」
愛美が肩を揺する。朋美の興奮はまだ冷めない。『地下鉄キャッチボール』の命令を貰った時も、朋美は自分が露出っこだとは思っていなかった。ハダカで外に出るのは芳樹を喜ばすためのものだった。愛美とふたりで全裸ジョギングをしたこともあったが、ハダカへの抵抗が少ないだけで、露出で興奮するためではなかった。
今回の露出も、第一は愛美に人前露出のお手本を見せるため、第二にSMクラブでの悪夢から救い出してくれた管理人に恩返しをするためのもの、少なくとも朋美はそう思っていた。
「やってみないとわからないことってあるものよね」
君枝が運転席から話しかけた。
「そうですね」
「こんなこと、できるなんて思ってなかったでしょ」
「はい、自分でもびっくりしてます。でも、管理人さんは私ならできると思ったから命令したわけだし、君枝さんも止めなかったから……」
「やってみないとわからないことってあるものよね」
君枝がまた同じことを繰り返した。
朋美は運転席に顔を向ける。愛美は朋美と君枝の間で首を左右に振っていた。
「芳樹とはあれから話してないでしょ」
「……はい」
「言いたいことがあるなら言わなきゃダメよ。ずっと悩んでいるみたいだけど、話してみたら何でもないことかもしれないわよ」
(そうか。君枝さんはそれで……)
「ねえ、何? 何のこと?」
愛美が口を挟む。
「愛美にはまだちょっと早いかな。あたなも靖史君をほったらかしにしちゃダメよ」
「私は……ヤッ君とは毎日一緒に登校してるもん」
愛美は後部座席の背もたれに体を投げた。何かをごまかされていることは気づいているのだろう。それでも追求しないところが愛美らしかった。
車が止まった。
「さあ、行ってらっしゃい」
君枝が言う。そこは芳樹のアパートの前だった。
芳樹の部屋には鍵が掛かっていなかった。部屋にいる時はいつものことだ。朋美はドアの前で深呼吸をすると、勢いを付けて飛び込んだ。
「芳樹っ」
部屋に入ると着ていたワンピースを脱ぎ捨て芳樹に抱きつく。朋美はそれだけで全裸だった。肌着のシャツにトランクス姿の芳樹は特に驚くでもなく、むしろ何でもないことのように抱き返す。顔を見るのは三角木馬の上にいた時以来だ。
言葉を交わすこともない。ふたりの唇が合わさった。舌と舌とが握手するように絡まる。歯の裏側まで舐め上げられ、唾液がひとつになる。朋美は芳樹の頭を抱き、芳樹は朋美の背中に手を回す。愛し合う男女の自然な形を見せていた。
部屋の明かりは点けたままだ。最初の内こそ朋美の体を気にする素振りを見せていた芳樹だが、何事も無さそうだと見て取ると朋美の裸身を抱え上げベッドに載せた。馬乗りになった芳樹に胸の白桃を鷲掴みにされ、その感触を朋美は懐かしむ。
「ああーん」
もう随分前のことのように思えた。
この部屋。この肌触り。芳樹の臭い。それらのすべてに朋美は「ただいま」と告げる。自分の居場所に戻って来た気がした。
芳樹は知らないことだが、ついさっきイッたばかりの朋美はすでに受入準備ができていた。乳房を荒々しく揉まれるだけで花芯に蜜が溢れる。それでも芳樹は止まらない。手のひらに余る真っ白に乳肉を愛おしむように揉みしだく。朋美の体は性感で満たされていく。
「あっああーん、はぁ、あん、あああ……」
芳樹が両方の乳首を摘んだ。痛みはすぐに甘い痺れとなり、体の奥に染みこんでいく。もう愛撫は十分なのに、芳樹は止まらないだろう。
――これは俺のだからな
初めて体を合わせた時、芳樹が言った言葉を思い出す。あれ以来、この乳房は朋美のものではなくなった。セックスに度に芳樹は執拗な愛撫を繰り返す。今日の朋美は、この刺激だけでもイッてしまいそうだった。
「ああ、欲しい。芳樹が……欲しいよぉ」
朋美はとうとう口走ってしまった。
「なんだい、今日は。随分と感度がいいじゃないか」
「ああん、だってぇーーー」
朋美は芳樹のシャツをまくり上げる。いつもの厚い胸板がのぞいた。トランクスに手を掛けると面倒くさそうに腰を浮かす。乳房からは手を離さない。脱がすなら脱がせと言った様子だ。朋美は芳樹の体をくぐり抜けて起きあがり、トランクスを脱がせると股間で主張は始めた肉の塊にしゃぶりついた。
(これは私のモノ。おっぱいと交換したの)
朋美はそう思っていた。その先端に唇を付けると途端に堅さと大きさを変える。何度も見てきた光景だが、こんなに大きかったかとあらためて思う。舌先で縦割れに沿って弄ぶ。微妙な反応を楽しみながらカリの部分まで舐め上げる。舌先を竿に下ろす。右から、左から、そして裏側に回ってその根本までキスマークを刻むように唇を這わす。ペニスの先端は放ったままだ。芳樹は焦れたのか、腰を捻って朋美の口元に先端を持っていく。
「もう。催促してぇ」
口ではそう言いながらも、喉の奥まで飲み込む朋美。
「うううっぐ」
芳樹の口から声がこぼれた。朋美は頭を縦に振ってペニスをしごき続ける。また一回り大きくなった感じだ。皮膚が破裂寸前まで突っ張っているように見える。口の中で出させるわけにはいかない。今日はどうしてもこのいきり立ったもので秘孔を埋め尽くして欲しかった。朋美はペニスを口から離すと向きを変えた。芳樹はベッドの上隅に手を伸ばしコンドームを取り出す。包装を破いてすばやくペニスに被せた。
芳樹の腰に跨った朋美が自らの手でペニスを秘孔にあてがう。すでに十分以上の潤いを帯びていた部分に異物が触れた刹那、朋美は意識が遠のくのを感じた。
「あひぃっっっ」
(ダメっ、まだイッちゃ……)
敏感過ぎる反応に朋美自身が戸惑う。少しでも油断すれば、挿入と同時に気を遣ってしまうかもしれない。それほどまでに芳樹を求めていた。
意識はしっかりと保ちつつ、ゆっくりとした動作で腰を落とす。コンドームを付けた肉の塊が朋美の体に埋まっていく。ずっと求めていた感触がようやくその部分を満たしていく。朋美は下唇を噛みしめた。
「ふぁくぅぅぅぅぅぅ」
ペニスが根本まで隠れた。子宮の入り口を押し上げられる感覚にめまいを感じる。このままこうしていたい。朋美がいつも思うことだ。芳樹と一緒にいる。自分だけの芳樹。こうしているだけで何もいらない。至福の時だ。
芳樹もいつもと違う朋美の反応に気づいたのだろうか。いきなり腰を使ったりはしない。下から朋美の様子を眺めている。大好きな乳房も見るだけに止め、朋美の次の動きを待っているようだ。
「いい。いいわ、芳樹」
自分でも驚くほど艶やかな声が鼻から漏れる。朋美もいくらかは落ち着いて来た。少なくとも、このままじっとしていればイクことはない。
「もういいのか?」
芳樹は朋美の股間を気にしているのだろう。手で触れることもなかった。朋美が自分から納めなければ今も尚乳房だけを愛撫していたかもしれない。あの日、三角木馬から下ろされた朋美を最初に介抱したのは、恐らく芳樹だ。
「心配してくれるんだ?」
気持ちは嬉しかったが、朋美は少しだけ憎まれ口を聞いた。
「まあな」
「あぅうう、いっ、一週間もほったらかしのくせに?」
秘孔にじわじわとこみ上げる快感に意識が飲み込まれる。まともな会話ができているのだろうか。喘ぎ声と区別がついているのだろうか。
「俺はあの家には入らない。前に言わなかったか」
芳樹が右手で乳房を掴んだ。朋美は息を詰まらせた。乳房を起点とした性感が体の中を駆けめぐり花芯にまで届くようだ。
「いいいっ、はあーん。あうぅ……」
快感に酔わせながらも朋美は思い出す。確かに聞いたことがあった。芳樹は自分たちを捨てた父親の世話にはならない。父親の立てた家には立ち入らないと決めたのだと。
「で、電話くらい……ああ、くれたって、あっ、あああーー」
芳樹が両手で乳房を愛撫し始めた。下乳を手のひらに載せ、持ち上げるように揉みしだく。乳首が上を向き、宙に模様を描き出す。それがまためまぐるしい動きになっていく。
「ああ、そういう手もあったな」
とぼけた返事だが悪気は感じられない。芳樹はそういう奴なのだ。
「し、心配じゃ……なかった……の?」
「母さんから様子は聞いていたからな」
芳樹は君枝と連絡を取っていた。朋美を母親に預けてあったから安心していたということか。それで君枝はあんなことを……
――話してみたら何でもないことかもしれないわよ
朋美は芳樹の手を振り払い、その両肩を上から押さえた。
「ねえ、芳樹。聞きたいことがあるの」
「何だよ。急に」
「ずっと思っていたことよ。芳樹は普段から何で電話をくれないの?」
決して責めているという口調ではない。どちらかと言えば甘えておねだりをする時のような猫なで声だ。
「朋美から掛けてくるんだからいいだろう」
そういうものでもないと思うが、芳樹らしいと言ってしまえばそれまでか。股間にくわえ込んだままのペニスが脈打つ。朋美は顎を上げて息を飲み込んだ。
「だったら、何で私のマンションには寄って行ってくれないの?」
「お前のところは女性専用じゃないか」
それはそうだ。朋美の方こそ何でそんな単純なことに気づかなかったのだろう。でも、最後にもうひとつ残っていた。
「SMクラブに助けに来てくれたあの日のことだけど、愛美ちゃんの名前ばかり呼んで私のことは忘れていたでしょ」
これだけは聞くべきではないのかもしれないと思っていた。カノジョと妹、どっちが大切なのかと聞いているようなものだ。そういうことは言いたくなかったし、「愛美だ」と答えられるのも怖かった。
「忘れてたよ」
芳樹が答えた。それが正直なところなのだろう。
「やっぱり……ね」
「だってそうだろう。俺は『愛美が誘拐された』としか聞いてないんだぜ。朋美は何度電話しても話し中だし、でも電話しているってことは無事だってことだろう。あんなことになっているなんて思いも寄らなかったんだ」
芳樹の視線が真っ直ぐに朋美を見ていた。
――愛美ちゃんが誘拐されました。詳しいことはまた連絡します
朋美はメールにそう書いた。その後倉木から電話が掛かってきてSMクラブに着くまで切らせて貰えなかった。芳樹は倉木たちの目的が朋美であることを知らない。愛美のキッズケータイで居場所を突き止めてあの場所に来たのだ。朋美もそこにいてあのような状態になっていようとは夢にも思わなかった。
朋美の胸に残っていた氷の粒が溶けていく。
「それじゃ私が誘拐されても助けに来てくれる?」
「もちろん行くさ。これは俺のだからな」
芳樹がまた朋美の乳房を鷲づかみにした。
「ああーん……もう。芳樹ったらそればっかりなんだから。ひゃあー」
「おしゃべりはもういいだろう」
芳樹が腰を下から突き上げた。何とか押さえ込んで情欲が一気に臨界点まで跳ね上がる。おあずけを食っていた芳樹も止まらない。猛り狂ったペニスが子宮を突き破らんがばかりに荒れ狂う。
「ひぃいいぃ、ダメぇ。芳樹、あっ、いいっ、イクっ。あああっ、イッちゃうよぉ」
「まだだ。まだ我慢しろ」
「ダメっ。ダメっ。あああ、ダメだよ、芳樹。ああーん、来てっ。芳樹も……一緒に。ああ……ああああああーー」
芳樹は朋美が一度イッていることを知らない。いつもの調子で責め上げる。腰の上で朋美の体が跳ねる。乳房が縦に揺れ、芳樹の手から飛び出した。
「ひぃいいいぃぃーー。イヤっあああ。はうぅううう……ダメっ、よしきっ。もうダメっ、イクっ。イクっ。ふぁあああ……ん、イっちゃう。あああっ、イッくぅううううううぅぅ」
真っ白な闇に朋美の脳裏が包まれた。
上体を芳樹に被せ、余韻に浸ろうとする朋美だが、芳樹はそれを許さない。朋美の体を抱え上げ、自らのそれと入れ替えた。
「ひゃあー、何?」
「ダメだ。今日はこんなことじゃ終らせない」
正常位に戻った芳樹が腰を振るう。イッたばかりで性感が剥き出しになっていた朋美はたまったものではない。すぐにまた昇り詰めていく。
「ひぃいいぃ、ダメえーー。も、もう勘弁」
「聞こえないね。ひとりで勝手にイキやがって。朝まで徹底的にヤッてやるぅ」
芳樹は元気いっぱいだった。射精をしていないペニスはさらに獰猛だ。秘孔を激しく出入りする。秘肉を滅茶苦茶にかき回す。衰える気配はない。
「ダメぇーー、おかしくなっちゃうぅぅぅ」
ふたりの体躯が情欲と汗にまみれた。この後、何回イッたかわからない。
(つづく)
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