第8話 対決
愛美は檻の中にいた。鉄格子は太く硬い。大型犬のケージ程の大きさしかないその中に、首輪を付けられた全裸の身を丸めていた。若い男がひとり、部屋の隅に腰を下ろして横顔を見せている。倉木が見張り役として残していったのだ。
(そんなことしなくたって逃げられないのに)
檻の扉には南京錠が掛けられていた。
プレイルームを連れ出された時はどこに連れて行かれるのかと恐怖したが、鉄の檻は廊下を挟んで反対側の部屋に移されただけだった。広さは前の部屋の半分くらいだ。壁や天井の内装は同じで、置いてある器具も似たようなものだ。
愛美は鉄格子を掴む。金属特有の冷たさを手のひらに感じた。この檻のせいで逃げられないのは確かだが、見張りの男は南京錠の鍵を持っていない。結果として、愛美をレイプから守っている。藍子の機転のおかげだった。
「ねえ、いつまでこうしているの?」
愛美は、男に声を掛けた。ホテルの中庭では対等以上の口を利いていた相手だ。ハダカなのは恥ずかしいが、舐められてばかりはいられない。
「うるさい。黙ってろ」
話しかけられるとは思っていなかったのだろう。男の声がうわずる。
いくつくらいだろうか。三人の中では一番年下のようだ。あどけなさの残る顔立ちは兄の芳樹と同年代にも見える。身長はそれほど高くないが、引き締まった体付きは肉体労働者を思わせた。
「私の服、持って来てよ」
男は、愛美の声を無視した。
「ねえ、聞こえているんでしょ」
「聞こえてるよ。でも、どこにあるかわかんねえし、勝手なことはできねえよ」
「なんだ。意気地なしなのね」
男は横を向いたままだ。愛美が顔を伏せていたり、反対側を向いていたりする時にはこちらを見ていることもあるのだろう。視線を感じて男の方を見ると慌てて目を逸らした。女の子のハダカに興味は有るのは仕方がないが、見掛け以上に純情なのかもしれない。
愛美は、自分が朋美をおびき寄せるための道具に使われていることが辛くてならなかった。ここに連れて来られてからも随分と時間が経っている。朋美はどうしているのか。藍子はあれからどうなったのか。少しでも情報が欲しかった。話のきっかけを作ろうと話かけるのだが、うまくいかない。正直に頼んでも、教えて貰えるとは思えなかった。
「ねえ、あんた、いくつ?」
愛美はめげない。この男の横顔が悪い人には見えなかったからだろうか。倉木が連れて来たもうひとりの男だったら、愛美も別のことを考えていたかもしれない。
「うるさいって言ってるだろう」
「いいじゃない。歳くらい」
要はきっかけだ。何でも良いから、話の取っかかりが欲しかった。
自分がこういう状況になっていることを誰も知らない、少なくとも愛美はそう思っていた。兄の芳樹が助けに来てくれることはない。母の君枝もまたしかりだ。
(でも、もしかしたら管理人さんなら……)
それこそ淡い期待だが、『露出っこクラブ』の管理人はバーチャルな存在だけに常人にはない力を発揮して愛美を助けに来るのではないか。そんな想いがどこかにあった。絶望的な状況だからこそ、そうしたものにすがりたかっただけかもしれない。
「十九歳だ」
少し間が有ったが、男は独り言のようにそれを告げた。
「へぇ、やっぱお兄ちゃんとタメなんだ。名前は?」
「なんでお前みたいな小娘に教えなきゃならないんだよ」
「愛美よ」
「何?」
「私は愛美。お前でも小娘でもないわ」
次はあなたの番よ。愛美はそういう目で男を見つめた。
「……斗也」
「ふーん、どういう字を書くの?」
「北斗の『と』に『なり』だよ。って、何でそんなことまで聞くんだよ」
「いい名前ね」
面倒くさそうに言い捨てた斗也だったが、愛美に切り替えされて次の句が出ない。愛美に向けた目を瞬時に戻し、鼻の頭を掻いた。
「斗也ってさあ、カノジョ、いないでしょ」
「関係ねえだろう!」
斗也が、目を丸くして体ごとこちらを向く。
「こらっ、こっちを見るな」
「ご、ごめん」
愛美は胸を抱き、肩越しに睨み付けた。顔を真っ赤にして背を向ける斗也。本当に焦っているようだ。目の前に女の子がハダカでいるのだ。見たくないわけがない。でも、見たがっているとは思われたくない。そんなところだろうか。
「何だよ?」
愛美のこらえ笑いが聞こえたようだ。
「だってぇ、誘拐犯が人質に怒られて、ごめんって言うかなあ」
「うるせい……」
呟くような声だった。
「こんなひどいことをするよう人には見えないんだけどなあ」
本心だった。朋美に用があっただけなのかもしれない。ちょっと強引だが、たまたま愛美がこんな姿でいるところに出くわしただけで、話がしたかっただけなのかも。斗也を見ているとそんな気がしてならなかった。
「俺だってこんなことしたくないさ。特にお前は関係ないし……」
「だからぁ、愛美だって」
「あっ、うん。愛美は関係ないし、悪いのはあの女だ。あいつが若社長と婚約していれば全部うまくいったんだ」
「朋美さんが悪いわけじゃ……」
愛美は聞いていなかったが、お見合いを断られたからと言って憎まれる筋合いではない。それは間違いないが、愛美は斗也の言葉に強い語気を感じ取っていた。
「本当に結婚しなくたっていいんだ。しばらく付き合っているふりをしてくれるだけで良かったんだ。若社長だって政略結婚みたいな見合いは乗り気じゃなかったよ。でも仕方が無いんだ。俺には難しいことはわからないけど、会社を建て直すにはとにかく金がいる。それにはあの女のバック、細川の後ろ盾が必要なんだ」
口の重かった斗也が、一気にまくし立てた。
「何だか戦国時代みたいね」
「そう言うなって。内の会社には俺みたいなハンパ者がゴロゴロいるんだ。鶴岡ハウス工業が拾ってくれなきゃヤクザか浮浪者にでもなるしかないんだ。社長も偉いけど、若社長なんか中卒の俺とため口だぜ。会社が潰れて欲しくないだけじゃない。俺たちは皆、若社長には恩があるんだよ」
中学生の愛美には全く違う世界の話を聞いているようだった。
朋美がお見合いをしたホテルの中庭を思い出す。相手の男性は、愛美から見たら若めのオヤジでしかなかった。悪い印象は無かったが、それだけだ。斗也たちのあの日の行動は、愛美が朋美を慕う気持ちと同じものだったということか。
「朋美さんに会ってどうするつもりなの?」
愛美は核心に迫った。
「復讐する。俺たちは今日そのために来た」
「女子高生にお見合いを申し込む方が悪いんじゃない。朋美さんが何をしたって言うの?」
「あの女は……ごめん。愛美には悪いが、俺たちはあの女が許せない」
斗也がウソを言っているようには思えない。むしろ、確かな信念と決意を感じさせるものがあった。それでも尚、愛美には朋美が他人から恨まれる対象になるということ自体が信じられない。
「何か変だよ。朋美さんはそんな人じゃない」
愛美はゆっくりと首を振る。涙がこぼれそうだった。
「変って言われても、この話は殆ど決まっていたんだ。細川家のご親戚と何度も打ち合わせをして、その度に若社長が接待させられて、気の毒で見ていられなかった。細川建設の下請け連中から圧力を受けたり、あからさまな嫌がらせをされたりもしたんだ。それはそうだろう。俺たちが乗り込んでいけば、自分たちに回ってくる仕事が減ることになるんだからな。あいつらも必死というわけさ。イヤなことを全部乗り越えてやっとうまくいくと思ったんだ。あのお見合いだって形だけで仮契約まで済んでいた。後はいつ社長が細川宗一郎を訪問するかってところまで来ていたんだ。それなのに……」
斗也は一度言葉を切った。悔しさで胸がいっぱいになったのか、それとも愛美に遠慮したのか、あるいはその両方かもしれない。
「下請けの連中が業界に手を回しやがった。建設の仕事はハウスメーカーだけでは成り立たないんだって倉木さんが言ってたよ。これで細川に付けなきゃ俺たちは終わりだったんだ。お嬢様の気まぐれで全部おじゃんになっちまったんだ。全部あの女のせいだ」
「そんな……」
遠慮ぎみだった言葉も、話している内に段々と本性を見せ始めた。斗也は少しだけ言いよどむ仕草も見せたが、抑えきれなかったようだ。
「あのお見合いで若社長は一目惚れしちまったんだ。会社を立て直してもう一度あの女にプロポーズするんだってはりきっているんだ。それなのにあの女はSM嬢だって言うじゃないか。何が良家のお嬢様だ。男だって何人いるかわからない。とんでもない性悪女に若社長は騙されているんだ」
「違う。そんなの絶対に間違ってる」
愛美が声高に反撃するが、
「違わない。よく考えてみろ。愛美だって騙されているかもしれないじゃないか」
「なんでそんなに悪く言うの。朋美さんはお兄ちゃんのカノジョよ。他に男の人なんていない。性悪なんかじゃない。斗也の方こそ、誰からそんな話を聞いたの?」
「誰って……いいだろう、そんなこと。俺たちは復讐するって決めたんだ」
話がおかしい。斗也たちは誰かに間違った情報を伝えられている。若社長と呼ぶ男を慕う気持ちうまく利用されているとしか思えない。復讐するという考えだって、その誰かにそそのかされているのかもしれない。
「その人、信用できる人なの?」
「あっ、ああ」
「斗也の方こそもう一度考えてみて。朋美さんのこと、よく知らないんでしょ」
「だって君島さんは……」
「誰よ。それ」
「君島さんは倉木さんの先輩だよ。高校の頃からかわいがって貰ったんだって。俺たちにもご馳走してくれるんだぜ」
「ふーん、エサを貰って懐いたわけだ」
「なんだとぅ」
斗也がまた愛美の檻を振り向こうとした時だった。
「倉木さんが、その小娘を連れて来いってよ」
部屋のドアが開いて、もうひとりの若い男が顔を出した。
「は、はい」
斗也が立ち上がり、檻の脇に立つ。こっちを見ないでと言える雰囲気ではなかった。
「ごめん。もう少し我慢してくれ」
檻が動き出した。もうひとりの男は遠慮の無い視線を向けて来る。愛美は両手を胸から離すことができない。揺れる檻の中にあって鉄格子につかまることもなく、正座した足先をハの字に開いてバランスを取るしかなかった。
「どこに連れて行くの?」
違う。聞きたかったことはそれではない。
「朋美さんはどうしたの?」
でも、それは言葉にはならなかった。
廊下に出ると反対側の部屋の扉が開いていた。さっきまで愛美が責められていた部屋だ。さらに進むと床に衣類が落ちているのが見えた。
白いブラウスにタイトミニ……
(朋美さんのだ)
下着もあった。こんなところになんで? ううん、そんなバカな!
愛美はそれらから目が離せない。予感は悪い方にばかり進んでいく。答えはすぐに出た。連れて行かれた部屋の真ん中に朋美の姿を見つけた。後ろ手に縛り上げられた全裸を天井から吊られ……
「きゃああああああああああああああーーー」
渾身の絶叫は愛美の恐怖を絞り出していた。
――これはもう責め具というより拷問具だわ
藍子の言葉が耳元に甦る。朋美はあの三角木馬に乗せられていたのだ。
愛美がこれに乗せられそうになった時、狂ったように「死んじゃう」と叫んだ。朋美だって耐えられなかったと聞いていた。あの鋭い三角形が股間に食い込んでいる。朋美は丸裸だ。女の子の最も恥ずかしく、敏感な部分を責められているのだ。
「朋美さん、朋美さん」
愛美は声の限りに叫んだ。両手で鉄格子を掴み、顔を押し付ける。
返事はない。耳にも届いていないようだ。意識を失っているか。まさか、本当に死んでしまったのではないか。胸が内側から張り裂けそうだ。
「うるせいなあ。おい、斗也。小娘を黙らせろ」
倉木が大声を出す。斗也は檻と朋美の間に割り込んだ。
「愛美。ほら、おとなしくして」
「だって、朋美さんが死んじゃう。死んじゃうよお」
斗也は倉木を見た。
「大丈夫だ。そう簡単に殺したりはしない。ちょっと気を失っているだけだ」
「聞いたろ。頼むからおとなしくしてくれ」
斗也は鉄格子を握る愛美の手を、その上から包んだ。愛美は斗也の目を見る。その目をすでに泣きはらしていた。朋美に復讐すると言っていた斗也。少しだけ気持ちが通じたかもしれないと思っていたのにと愛美は声を震わせる。
「あんなひどいことするなんて……」
斗也が目を背ける。こんなことになっているとは思っていなかったのかもしれない。
「もういいんじゃないの?」
藍子だった。朋美の足首にロープを巻き付けている。
「ああ、それが済んだら水をぶっかけろ」
「そうじゃなくて……」
藍子の脇に立っている男を愛美は知らない。痩せた体がカマキリに見えた。
「やめて。お願い、もうこんなことやめさせて」
愛美は鉄格子のすき間から手を伸ばし、斗也のシャツを掴んだ。斗也は一瞬だけ倉木の方に横目を向けたが、すぐに愛美へと戻す。
「だから、復讐なんだ」
「もう十分じゃない。女の子をこんな目に遭わせて恥ずかしくないの?」
返す言葉が見つからなかったようだ。愛美は斗也の体を揺する。
「斗也。ねえ、何とか言って」
「なんだ、お前ら。いつの間に仲良くなったんだよ」
もうひとりの若い男が斗也の頭を平手で叩いた。
「そんなんじゃないスよ」
「どうでもいいが、もう少しおとなしくさせておけ」
男はもう一度斗也を小突くとバスルームに向かった。
「今は止められない。倉木さんたちの気が済むようにさせてくれ。そうじゃないといつになってもあの女を追いかけ回さなきゃならなくなる。愛美だって……いや、こっちからも頼むよ。そこでおとなしくしていてくれ」
真剣な目つきで斗也に諭され、愛美はシャツから手を離す。他にどうすることもできなかった。
バスルームから戻った男は、手にバケツを提げていた。並々と入れられた水をこぼしながら、三角木馬へと近づく。
「やれ」
カマキリのような男が顎で示した。男は勢いを付けてバケツの水を朋美の顔に叩きつける。水圧に体を押され、上半身が水浸しになる朋美。
「うううっ……」
うなだれていた朋美の頭が持ち上がった。
◇
朋美の細い視界に、三角木馬の頂きが見えた。強烈な痛みが一瞬にして記憶を呼び覚ます。残酷な凶器は、気を失っている間も確実に朋美の股間を痛めつけていた。
「あがぐぅぅぅ」
覚醒すると同時にマックスまで上り詰める激痛。朋美の現実は何も変わっていなかった。
「お目覚めのようだな」
君島が真下から見上げる。その向こうでは藍子が涙目になっていた。朋美がどれだけ辛い想いをしているか、なまじ知っているだけに責める側の辛さというものがあるのだろう。
――せめて、少しでも早くギブアップして
藍子の言葉に朋美は揺れる。この地獄を続けるより倉木たちに輪姦される方がどれほど楽か。少なくとも肉体的には比較にならない。
「どうだ。降参するか」
心の内を読まれたかのようなタイミングだった。表情にも出ていたのだろうか。君島が含み笑いを浮かべていた。
「うっぐぅううううう」
秘部を襲う周期的な激痛が朋美の思考能力を奪う。痛みの部位を少しでもずらそうと試みるが、ローションの滑りで最後の抵抗も封じられた今ではそれも適わない。朋美の体躯は、ただ責められるためだけに存在していた。
「五分は過ぎたぞ。新記録だそうだな」
(まだ、たったそれだけ……)
今までの何倍もの時間をこの苦しみに耐えなければならないなんて。一時間という終点が遙か彼方の幻想に思える。
(ごめん、芳樹。耐えられないかも……)
脳裏に浮かぶのは芳樹の顔。この勝負がどれだけ残酷なものだったか、君島には想像もできないに違いない。朋美の崩壊はもうそこまで来ていた。
「そろそろですかね」
倉木が君島に話しかける。
「もう少し頑張るかと思ったんだがな。残念だよ。あんたらの方はもういいのか?」
「いくらでも責めてやりたいところですがね。これ以上やったら、肝心なところが使い物にならなくなりそうだ」
「違いねえな」
君島と倉木、そしてもうひとりの男が大きな声をあげて笑った。不思議なもので、朋美にはそれが不快ではなかった。これでギブアップができる。この地獄から解放される。時の流れていく方向へ身を任せようとしていた。
「でも、いいんですか。この女がギブアップしちまったら君島さんが困るんじゃ?」
「その時はこっちの娘を仕込むまでだ」
意味がわからない。こっちの娘って……
朋美は朦朧とした目を君島の指がさし示す先へと向ける。鉄の檻が見えた。今日のプレイで愛美を入れる積もりだったものだ。
「えっ……愛美ちゃん!?」
バラ鞭で散々に打たれ薄紅色に晴れ上がった全身が瞬時に凍り付く。間違いない。檻の中には全裸の愛美が閉じこめられていた。怯えきった目でこちらを見ている。男に口を押さえられ声を出すこともできないようだ。どんなに怖かったことだろう。とんなに恥ずかしかったことだろう。今すぐ抱きしめてあげなければと思う朋美だが、縛めを打たれ天井から吊された身ではどうにもならない。
「ああ、お前の大事な娘を連れて来てやったよ。体つきはまだまだだが良いマスクをしている。将来はお前より美人になるかもな」
「ま、愛美ちゃんを、あぅ、どうする……んぐぅ、あああーー、つ、つもり……の?」
「そんな怖い顔で睨むなよ。藍子が勝ったらお前から手を引いてやらなきゃならねえだろう。だからこの小娘に代わりをさせるんだよ。仕込み甲斐がありそうだぜ。お前の時よりギャーギャーとうるさそうだけどな」
愛美に中学生の頃の朋美と同じことをさせるというのか。家出をして自暴自棄になっていた朋美はそれでも良かった。セックスもSMも自分が生きていく上で必要なことなのだと思うことができた。今の愛美とは違う。普通に育った女の子が耐えられることはではない。
「そんなこと……させない」
「朋美よお。お前の立場がわかってるのか。その形で言ったって説得力はゼロだぜ」
いつもの朋美なら、君島の煽りに動じることもなかっただろうが……。
「ぐわっがぁあああああああああああああーーー」
白目を剥く程の激痛が朋美を襲う。愛美を助けようと我が身を忘れて体を動かしたのだ。気持ちは君島に飛びかかっていたのだろう。その行為は自らの最も弱い部分を鋭利な突起に押し付ける形となって現れた。
「言ってる側からこれだ。小娘を身代わりにして、早く楽になっちまえよ」
もう一度気を失うことができたなら、あるいは救われていたのかもしれない。限界を超えた痛みの中で、朋美は君島の言葉を聞き、その意味を理解した。朋美がギブアップすれば倉木たちに犯されるだけではない。愛美に自分の身代わりをさせることになる。
「あああっ、やめてぇ」
どうしたら良いのか、朋美は考えをまとめることができない。
「おっ、いよいよギブアップか」
君島が倉木を見て笑いかける。男たちの目に陵辱の色が浮かんだ。
自分はどうなってもいい。倉木たちに犯されることで愛美を救うことができるなら、例え芳樹を裏切ることになっても許して貰えるだろう。でも、状況は全く逆なのだ。愛美を君島の手に落とすようなことになれば、芳樹は絶対に自分を許さない。何よりも朋美自身が自分を許せない。朋美は首を大きく横に振る。
「あがぁっ、ぅぅぅぅ……」
「どうした? はっきり言ってみろ。ギブアップなんだろ」
朋美は精一杯の気力を込めて声を絞り出した。
「ギャグを……藍子さん、ああっ、私の口を……塞いで、お願い……」
「なんだ、こいつ。ギブアップをしないつもりか」
君島が藍子を見る。
「朋美ちゃん、お願い。もうギブアップして。愛美ちゃんの面倒は私がみるから。家には帰してあげられないけど、そんなにひどいことにはしないから」
藍子にしてもそれが限界なのだろう。気持ちは十分に伝わるが、朋美は首をゆっくりと横に振った。
「それじゃ仕方がねえな。後悔するんじゃねえぞ」
君島が倉木に合図した。ふたりの男がひとつずつ鉄の錘を両手に持ち三角木馬の両側に運ぶ。釣り鐘型の真っ黒な鉄塊には白色の文字で「5K」と刻まれていた。いつの間にか足首にはロープが巻かれ、その先にはフックが付いている。
朋美は脳の血流が凍り付いていくのを感じた。
何としても一時間耐え抜いて見せる、そう決めた矢先のことだ。今のままでさえ耐え切れるものではないというのに、この上、足に錘を付けようというのか。それがどれたけの効果を生むのか朋美は知らない。以前にこの調教を受けた時は、錘を付ける前にNGを出していた。未知故の恐怖が朋美の細胞を凍てつかせた。
「藍子……さん……」
三角木馬の足下にうずくまる藍子。倉木の持つ鉄塊にフックを取り付けようとしていた。朋美の声は聞こえている筈だが、顔を背けるばかりだ。
「時間は待っててくれないぞ。早くやるんだ」
君島に催促されて錘のひとつを付け終える。倉木にはまだ鉄塊を持ったままだ。もうひとつの作業に取りかかる。フックを引っかけるだけなのだから作業自体は簡単だった。こちらの鉄塊も男が持ったままだ。
「もう一度だけチャンスをやろう。さあ、ギブアップするか」
あの鋭角な馬の背が深々と朋美の股間に食い込んでいる。突き刺さっていると言った方が良いのかもしれない。さらに荷重が加われば肌が避けるのではないか。そうした恐怖が頭によぎる。冷や汗が全身に流れるようだ。
「勘弁……して。ううう、こ、怖い……」
檻の中の愛美を見やる。朋美はやはりギブアップするわけにいかなかった。
「返事にはなっていないようだな。やれ」
倉木ともうひとりの男が同時に手を離した。落下した鉄塊が宙で止まる。朋美の膝が真っ直ぐに伸び、足首のロープが食い込んだ。
「ぐびぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
朋美の体が沈んだ。これまでにない苦しみが朋美を襲う。周期的に絶頂を極めてきた痛みが何倍にも膨れあがり、その絶頂がいつまでも続く。朋美の五感は痛覚に支配され、他の何物をも受け付けない。ただ痛みを感じるためだけの存在になっていた。
「ぎゃああああああああぁぁぁ。ぐあぁああああああああぁぁぁ」
息が続く限り叫び続ける。それは喉がつぶれるか、意識を失うまで終ることがない。そうなったからと言って地獄の苦痛から解放されるわけではない。ギブアップせざるを得ないような過激な責めを加えておきながら、ギブアップさせない工夫が施されているのだ。
藍子にも変化が見られた。一本鞭で朋美を打ち始めたのだ。木馬の痛みとは根本的に違う。鞭のそれはカミソリで切り刻むようなものだ。打たれる度に意識が覚醒する。朋美は気を失うこともできずに秘部を凶器にこすり付けられた。
「朋美ちゃん、お願い、もうギブアップして」
もう誰にも隠そうとはしない。大粒の涙をこぼしながら鞭を打つ。朋美が耐え続ける決意を固めれば固める程、その責めは激しさを増していくのだろう。
このゲームがいかに残酷なものか、発案者の君島も気づいていないに違いない。
倉木たちが目を背け始めた。朋美をボロボロにしてやると言っていた彼らだが、ここまで来ると興ざめなのか。それでも君島が続けている内は終わりにしようとも言えないのか。倉木ともうひとりの男は顔を見合わせ小声で何かを話し出した。
倉木の足下でケータイの着信音が悲鳴に混ざった。朋美が投げ捨てたモノだ。少し前までなら蹴飛ばしていたかもしれないが、倉木はそれを拾い上げた。メールが届いたらしい。倉木はそれを読んだ後、君島の背中から声を掛けた。
「君島さん、これ、俺たち宛のメッセージですぜ」
「誰からだ?」
「署名は『管理人』ってなってます。自分たちの身が大事ならこの番号に電話するようにと」
「あがうっ、ううーー、ううーー」
その言葉に反応をしたのは愛美の方だった。
「斗也、どうしたんだ?」
倉木が愛美を押さえ付けていた若い男・斗也に尋ねた。
「そ、それが急に暴れ出して」
「うー、うー。うううーー」
「痛っ、こ、こいつ、噛みやがった」
「もう、しつこいんだから」
愛美がようやく声を取り戻す。
「離してやれ。この娘、何か心当たりがありそうだ」
倉木に言われ、斗也は愛美の檻から離れた。
「管理人さんが助けに来てくれるわ。あなた達も、もうおしまいね」
「なんだと。こいつは誰なんだ」
倉木が朋美のケータイを愛美に向ける。
「自分で聞けばいいじゃない。電話しろって言うだから、した方がいいわよ。後悔したくなければね」
愛美が檻の中から突っ張っている。管理人というのは、『露出っこクラブ』の管理人のことだろうか。朋美には、かろうじてやり取りがわかるだけで、状況を理解することすることも想像することもできなかった。
「どうします?」
倉木がケータイを君島に差し出す。愛美は両手で胸を抱いたまま、君島に向かって舌を出して見せた。
「しょうがねえなあ。掛けてみろ」
「俺がですか?」
「そうだよ。他に誰がいるんだ」
倉木は一瞬もうひとりの男を見たが、それもほんのわずかだった。ケータイを広げ、ボタンをプッシュして耳に当てる。藍子も鞭を打つ手を止めていた。呼び出し音が朋美の耳にまで届く。繋がったようだ。
「あんた誰だ?」
「俺か?」
「俺は……あの女、栗田朋美のケータイメールを見て電話した者だ。用があるのはあんたの方だろう」
「えっ、何?」
相手の声は聞こえない。やや間があって、倉木がケータイのマイクを親指で押さえて君島に告げる。
「この娘が誰だか知っているのか、って言ってます」
倉木が示したのは愛美の方だった。
「そんなもの知るかって言え」
「愛美よ。榊原愛美」
君島の声を上書きするほど大きな声だった。愛美は電話の向こうの管理人まで聞こえるように言ったつもりのだろう。君島は「いいから言え」と手で指図した。
「は、はい」
倉木はマイクから指を離す。
「この娘はただの巻き添えだ。どこの誰だか知らないなあ」
「何?」
「それはどういう意味だ?」
横目で君島を見る倉木。
「あんた、誰なんだ?」
倉木がケータイを耳から外す。顔が青ざめ、マイクを押さえるのも忘れていた。
「知らなかったのなら勘弁してやるから、命が惜しかったらすぐにそこから逃げろ、と言ってます。もうすぐ近くにいる若い者が着く頃だと……」
「見え透いたことを言いやがって。そんな脅しにのるものか」
君島はそう言い捨てながらも視線はドアを向いていた。
「やばいですよ。こいつ、どこかの親分さんの娘なんじゃ?」
「そんなバカな」
「だったらなんで俺たちのことを知っているんですか。誰にも言ってないですよねえ」
倉木は朋美がここに来るまでずっとケータイで話をしていた。どこにも連絡を付けていない筈なのにどうやって嗅ぎつけたのか、不安に思うのも無理はない。鶴岡ハウス工業にはガラの悪い社員が多いとは言え、所詮はカタギでのレベルだ。君島と言えども、チンピラの類に過ぎない。
「倉木さん、逃げましょうよ。もうこいつへの復讐は十分だ」
もうひとりの男が倉木の腕を取る。
「そ、そうだな」
「ヒビってんじゃねえ。こんなのハッタリに……」
君島が言い終らない内に部屋の外が騒がしくなった。複数の足音。そして扉を叩く音。
「愛美! いるのか。愛美!」
返事を待つこともない。勢いよく扉が開き、芳樹が飛び込んで来た。
「どこだ。愛美!」
仁王様のような形相で誰彼と無く睨み付ける芳樹。その大きな体がより大きく見えた。
「ひゃあー。倉木さん、もうダメだ」
若い男が部屋から逃げ出す。
「愛美ちゃん、どこ?」
入れ違いで靖史が入って来た。倉木がケータイを投げ捨て、檻の側から離れる。君島が芳樹に突き飛ばされた。
「お前ら、なんてことをしやがるんだ」
芳樹が来た。もう大丈夫だ。
(愛美ちゃん、良かったね)
朋美は次第に遠のく意識の向こうで芳樹の声を聞いていた。
真っ暗な夜道を朋美は逃げていた。
愛美の手をしっかりと握り締めひた走る。
先は見えない。
でも、愛美だけは何としても守ってやらなければ。
絶対に捕まる訳にはいなかい。
暗闇に一筋の光が見えた。
芳樹だ。
迎えに来てくれたんだ。
両手を広げる芳樹に愛美が飛びつく。
「良かったね。愛美ちゃん」
手を取り合って帰路に着く兄と妹。
朋美はふたりの後ろ姿を見送った。
朋美は意識を取り戻したのは病院のベッドだった。すでに消灯時間は過ぎていたのだろう。カーテンのすき間から街の明りが差し込んでいた。外を通る車のエンジン音は絶えることがない。
朋美は病院の寝間着を素肌に着ていた。
全身がヒリヒリと痛んだ。下半身には力が入らない。痛み止めが効いているのだろうか。お臍から下の感覚が無かった。起きあがろうとしてベッドに手を付く。肩の関節にも違和感があった。手首をこすり二の腕を揉む。
ようやく上体を起こすと、腰の脇に愛美が伏せていた。病院の丸イスに座ったまま寝てしまったのだろう。
朋美は部屋を見回す。他にベッドは無い。病室だけあって殺風景ではあるが、個室にいられるだけでも贅沢というものだ。
「ごめんね。こんなことに巻き込んじゃって」
愛美の頭をそっと撫でる。SMクラブにいた時と同じチュニックを着ていた。家にも帰らず、まっすぐここに来たのだろう。
「ううーん……」
愛美が顔を上げた。
「あら、起こしちゃったかしら?」
「朋美さん!」
愛美はイスから立ち上がる。今にも朋美に飛びつきそうな勢いだったが、さすがに自重したようだ。代わりに朋美の手を取り、頬に擦りつける。
「良かった」
手の甲に熱いものが落ちてきた。
「愛美ちゃんは大丈夫なの?」
「私は平気です。檻に入っていただけですから。でも朋美さんは……」
「こっちは最低。体中ボロボロだわ」
「でも、体に傷は残らないって、さっき先生が」
「そう。良かった」
部屋には愛美しかいない。朋美は肩でため息を付いた。
「そうだ。目が覚めたら呼びに来てくれって言われてたんだ。ちょっと待っててくださいね」
愛美が病室を飛び出していく。もうすっかり元気みたいだ。
(もしかして芳樹が……)
そう期待せずにはいられない朋美だった。寝間着の襟元を直していると、愛美と一緒に戻って来たのは全く別の顔だった。
「お父様……」
それは朋美の父・細川宗一郎だった。愛美がベッドの脇の丸イスを勧める。
「やあ、気がついたね。これでもう安心だな」
「どうしてここへ?」
「榊原さんから連絡を貰ってね。たまたま私が電話に出たんだ。お母さんには内緒にしておいたから安心しなさい」
「そうだ。今日はご夕食を……」
「ああ、それも大丈夫。ごまかしておいたよ」
「お兄ちゃんもいたんだけどね。おじ様が来たら帰っちゃった」
「もう。芳樹ったら冷たいなあ」
「そう言うな。男の子はカノジョの父親が苦手なんだ」
病室に笑いが起きた。
宗一郎が来てくれたのは嬉しかった。顔を合わせることも稀な、ただ一人の肉親なのだ。この病室を用意してくれたのも宗一郎だろう。朋美は自分が個室を使っている訳だと思った。
「それで今日のことなんだが……」
そうだ。宗一郎はどこまで知っているのだろう。
「さっき聡司君から連絡が入ったよ。彼は何も知らなかったらしい。すぐにお詫びに来ると言っていたのだが、今日のところは遠慮してもらった。朋美が元気になったら、こちらから連絡すると言ってある」
「そうですか」
「本当にひどい目に遭ったな」
朋美は顔が熱くなった。まさか宗一郎にも、あの恥ずかしい姿を見られたのだろうか。それとも病院に来てから傷だらけの全身を見られたのだろうか。まさか局部まで晒したとは思えないが……。
「大丈夫ですよ。朋美さんのハダカは見られていませんから」
愛美が察して口を挟む。
「愛美ちゃんったら……」
朋美は両手で顔を押さえた。宗一郎は続けた。
「鶴岡ハウス工業との提携の話は決まっていたんだ。朋美のお見合いとは関係ない。叔母さんがでしゃばり過ぎた。経営危機なのは事実だが仕事は確かだ。経済基盤さえしっかりすれば立派な仕事をしてくれるだろう。細川建設の下請けにもなれ合いが見られるからな。鶴岡ハウス工業の参入は良い刺激になる筈だ」
仕事の話をする時の宗一郎は格好いい。内容は半分もわからないことが多かったが、それでも朋美は、生き生きとした口調で話す父の顔が好きだった。若い女の子と話すボキャブラリーなど無くて良いのだ。
「でも、だったらなぜあの人たちは……」
「ああ、聡司君が言っていたよ。あの君島という男に騙されたらしい」
宗一郎の顔が曇る。朋美の身に起きた不幸を思えば当然のことだ。朋美と君島の関係は宗一郎も知っていた。知っていて野放しにしていたことを悔いていたのかもしれない。
「君島は持田ビルに婿入りするつもりで調べていたようだ。建設業界の事情には詳しかった。それらしい話をでっちあげて倉木とかいう男をそそのかした。朋美を憎むようにな。聡司君も会わせる顔が無いと言っていたよ」
「そうですか」
間ができた。待っていたように愛美が顔をのぞかせる。
「あのぅ、私、外した方がいいですか?」
朋美は宗一郎を見た。
「君も関係者だ。最後まで聞いてもらって構わんよ」
「ありがとうございます」
愛美は深々と頭を下げる。朋美も、宗一郎も、口元に笑みを浮かべた。
「聡司君は、倉木たちをクビにして細川からも手を引くと言ってきた。そこで相談だか、朋美はどうする。鶴岡ハウス工業は許せないか?」
確かにSMクラブでの出来事は辛かった。ハダカにされたのは恥ずかしかったし、木馬責めでは死にたいとさえ思った。でもそれは君島が朋美を取り戻すために企んだこと。だとすれば、倉木もその被害者のひとりなのかもしれない。
「私はちょっとSM遊びが過ぎただけです。お父様のお仕事には関係ありません」
朋美はきっぱりと言い切った。
「うむ、よく言った。私はお前を娘に持ったことを誇りに思う」
宗一郎は、そう言って朋美の頭を撫でた。
「聡司君には私から連絡しておくよ。鶴岡ハウス工業と細川建設の契約には変更なしだとね。朋美との婚約は白紙に戻して貰うしかないが」
「わあ、良かったぁー」
愛美が手を打った。
「あら、なんで愛美ちゃんが喜ぶの?」
「だって、斗也が……」
愛美は斗也から聞いた話を掻い摘んで話し、そして最後に言った。
「悪いのは君島なんでしょ」
「そうだけど、愛美ちゃんって誰とでも仲良くなっちゃうのね」
「そんなんじゃないですよぉ」
「まあいいわ。靖史君には黙っていてあげる」
「だからぁ……」
愛美は顔を真っ赤にして上目遣いで朋美を見ている。
本当にかわいい。いつでも近くに置いて抱きしめていたくなる。みんながそう思うのだろう。愛されるために生まれて来たような子だ。
「愛美ちゃん、ごめんね。今夜は泊めてあげる約束だったのに」
朋美自身も残念だった。
「ううん、いいんです。来週までとっておきますから」
「ちゃっかりしてるのねえ。そんなに意地悪されたいの?」
「ええー、何するんですかあ」
隣で咳払いをする宗一郎。
「今度は私の方が席を外さなければならないかな」
娘ふたりの黄色い笑いが病室いっぱいに広がった。
「さて、朋美はもう休みなさい。愛美さんは私の車で送らせて貰うよ」
「はい、そうさせて頂きます。愛美ちゃん、おやすみね」
「やっぱ帰らなきゃダメですか?」
愛美は不服の色を隠さない。
「わがまま言わないの。本当はこんな時間までいてはいけないんでしょ」
宗一郎も頷いていた。
「はーい、わかりました。おやすみなさい」
病室を出ていく愛美と宗一郎。閉ったドアがもう一度開く。
「明日も来ますから」
愛美はそれだけ言い残すと、今度こそ帰って行った。
ベッドに横になり天井を見上げる。朋美はまたひとりになった。静まりかえった病室。忘れていた痛みを思い出す。バラ鞭で打たれた部位は痛がゆい程度だが、一本鞭で刻まれた幾筋もの痕が悪夢を呼び起こす。目をつぶるのが怖かった。
(芳樹……)
プレイルームに芳樹が現れた時は嬉しかった。朋美の居所は知らせていない。助けに来れる筈がないと思っていた芳樹が君島を突き飛ばした。これで助かる。もう安心だ。胸を撫で下ろす朋美。その一方で朋美は気づいた。芳樹は愛美の名前しか呼んでいなかった。扉を叩いている時も、部屋に入って来てからも、ずっと愛美を呼び続けた。もちろん、後から入って来た靖史は言うまでも無い。
この病室に芳樹はいない。
愛美の家で待っているのだろうか。明日になったらここに来てくれるのだろうか。いくら妹のピンチだからと言って、朋美の方が何倍も危険な状態だったのだ。一言でいい。「朋美、大丈夫か」と言って欲しかった。
普段から電話を掛けてくることのない芳樹。
朋美のマンションにも寄ることのない芳樹。
――俺にも朋美が必要みたいなんだ。
確かにそう言ってくれたのに、いつも朋美が追いかけるばかり。
(私は芳樹のカノジョでいいんだよね)
今までにも時折感じて来た疑問。こんな時だから余計に強く思うのだろうか。芳樹がどうやって自分たちの居場所を知ったのかという疑問もどこかに追いやられていた。
肉親は父ひとりなのだと思い知らされた中学時代。実家に連れ戻されて以来、朋美が心を開ける相手は宗一郎だけだった。その宗一郎も、今は愛美と一緒に行ってしまった。大好きな人は誰も側にいてくれない。
ついさっきまでの暖かい気持ちがウソのようだった。
(つづく)
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